第10話『還』

第10話『還』

記事
小説
短編連作『かぐや姫』より
ー人生には、役目が終わったことに気づく瞬間があります。
 この連作は、そんな瞬間を書き留めたものです。


第10話『還』
「あんたの顔、いっぺんトラックでひかれたみたいになってんで」 なんて言ったら、関東では酷いこと言うのね、とマジ顔でディスられる。トラックにひかれたみたいだといけないんだろうか?その言葉自体、またはその様子自体が直視してはいけないものだとでも言いたいのだろうか?関西の人は、こういう時、関東の人に壁を感じる。
洋服だって、「いくらやったと思う?」には、うんと安い値段を言って欲しい。それに負けないぐらい安い自信もあるし、お得なことを自慢したいんだから。そんな時にも、西と東の思惑はすれ違う。

そんな関西の文化の中で育った私は、「月の表面は、思っていたよりずっと綺麗じゃない」ということにリアルを感じる。さらに関西でなくとも少なくとも日本人は、昔から月に想いを馳せてきた。圧倒的に太陽よりも月にシンパシーを感じてきたんだと思う。
子供の頃、図鑑で月面の写真を見た時、夜空に浮かんでいるあの月と同じものだとは、思えなかったと思うし、思おうともしなかった。実際の月と、心の月は同じである必要すら感じてなかった。
穴ぼこだらけで、色もない。
空気も水もなければ、風も吹かない。
暗くて、寒くて、自分では光ることすらできない。
それはそれで月だというなら、それでいい。それでも、私たちは月を見上げて綺麗だと息をのむ。満月が浮かんでいれば、誰かに教えたくなるし、車の後部座席で夜空を見上げては「月が追いかけてくるー」と言って遊んでるみたいに楽しかった。月は何もしていないのに、美しい憧れにも、くすぐったい遊び相手にもなってくれた。
月はそのままそこにある。
見える時も、見えない時も、何も変わらずそこにある。
自らの暗さを隠すこともなければ、光ろうと努力することもない。
ただそこにいて、太陽との関係によって、毎日違う姿を私たちに見せている。

そして自然と満ちたと思えば欠けていく。
そのどれもが同じ月なのに、私たちは今日の月は細いとか、半分だとか、満ちたとかと言っては違う名前で呼んでいる。
もしかしたら名前ってそんなものなのかもしれないと、ふと考えてみる。
いい私。
悪い私。
ちゃんとしている私。
わがままな私。
優しくできた日は安心して、誰かを嫌いになった日はそんな自分を隠したくなって。
泣いている自分からは早く抜け出したかったし、誰かに嫉妬したり、腹を立てたり、どうして私ばっかりと思ったりすると、そんなところは削ってしまった方がいいとさえ思った。
丸くなりたかった。人とぶつからないように角を落として、駄目なところを削って、綺麗な円に近づけば、それがいい人生だと信じてたから。

でも、削り続けていたら、いつの間にか自分がどんな形だったのか分からなくなっていったんだと思う。誰かにぴったり合う形になってみたり、枠の中に綺麗に収まろうとしてみたり、色んな帽子を被ったり。それらは全部、その都度間違いだったわけでもなく、きっと必要なことでもあった。 

月は暗くて寒くてなにもないままでもずっと月なら、私が見せたくなかったところも、ずっと私だったのなら、最初から削ることも隠すことも必要なかったのか。
それでも「わがまま」は悪いことだと習った。だから「わがまま」は控えてきたけど、そうしてる内に自分のことがどんどん分からなくなっていった。
われの、まま。
嬉しい時には嬉しくて、悲しい時には悲しい。
好きなものを好きだと思い、嫌なものには心が閉じる。
優しくなれない日もあれば、誰かのためなら何でもできそうな日もある。
涙が出るなら、泣けばいい。ただ、涙に暮れないでいたい。泣いている私も巡りの途中にいるんだと、涙が止まる瞬間も感じたい。

そんな風にして、私は安心へ還っていける。深く暗く温かい私へと巡っていける。

カササギが
羽を広げてくれるよに
涙に暮れず
あなたを待つ 

私は、あなたを待ちながら、私を生きていく。
時々、空を見上げて、「まだかな」って呟きながら。


天羽詞鏡
2026.08.15
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