短編連作『かぐや姫』より
ー人生には、役目が終わったことに気づく瞬間があります。
この連作は、そんな瞬間を書き留めたものです。
第5話『アクウェインタンス』
同僚の「アクウェインタンスでいいじゃん」の言葉が帰宅してからもずっと心に引っかかり続けていた。
「明日何するの?」という何気ない帰り際の挨拶のときに、彼女は何気なくそう言った。
彼女は何も悪くない。
ただ私が戸惑ってしまって、「友だちと出かけるの」と言えばよかったのに、「息子の部活の保護者の方とね」と説明したから。
私は許されるなら、「友だち」と言いたかったのに、「えっ?友だちなの。」そんな声が聞こえた気がして、自信が持てなかった。
大学生のとき、これから働いて大人になる前に作った最後の友だちは、正真正銘ずっと友だちなんだと信じて疑わなかった。
やがて働き方の違いから、結婚のタイミングから、それぞれの繊細な心は以前の友だちの形を続けられるほど心に余裕がなくなるなんてことが起きると学ぶのは、まるで大人になるってことなんだと思えるほどだった。
嫉妬という言葉がリアルになり、違いが距離を生み、気付くと周りには同じような服を着た、同じようなことを考えている人ばかりになっていた。
それは自分の好みで選んだものではなく、やがて育てたい子供の未来像が似ている大人の集団になっていた。そこで出会う人たちに心を許して、赤裸々に話すことがあったとしても、それは私の友だちなのか、その時にはもう分からなくなっていた。
迷っていたのは私だけじゃなかったと思う。仲良くなるとママたちは、下の名前で呼び合うことを好むんだと知ったとき、みんな友だちの距離感を探し求めていて、他人が呼ぶ名前の響きに耳が喜ぶんだと思った。
それでも幼稚園は3年だし、小学校は毎年クラス替えをする。その度に子供たちがクラスで友だちを作るように、ママたちもクラスで友だちを作る。
そんなことを繰り返している内に、子供たちが毎年変わるクラスの中で今年の仲良しを親友と呼び合い肩を組んで笑い合うようには、無邪気に友だちという名前を誰に当てはめていいのか分からなくなっていた。
でも、私は誰にも言えない話をする「アクウェインタンス」を友だちと呼びたい。
子供の人生と親の人生は違う。それでもたまたまその中で友だちと呼べる人に出会うことはあるだろう。
仕事で付き合う人は、同僚と呼んで、プライベートで関係することはないのがほとんどなのかもしれなくても、気の合う人に出会う時もある。
高2の時の担任は、いい先生で人気もあったが、私はあまり関わる機会が持てなかった。それでも私はずっと事ある毎に彼の言葉を思い出す。「人生は選択の連続だから、どちらか選ぶなら、いつも大変そうな方を選ぶのがいい。」彼のこの言葉は、私の人生そのものみたいに感じられたから、あまりにフィットして離れなかった。どんな些細な選択の度にも、ふと過るのは彼のその時の言葉だった。
こんな風に付き合いの在り方と心に残ることとはいつも同じじゃない。
「友だち」は、近さも、深さも、肩書きも関係ないのに、私はその言葉の扱いに戸惑う。もしその人たちに見せていた柔らかい心の部分が、友だちじゃないと思うことで、風に吹かれたら痛むのは耐えられないから。
柔らかいところは簡単には見せない方がいいと思ってしまう。
私たちは綺麗に重なった地層のように積み重ねたものの上に立つとき、その地層の中に、置いてきた石が時折光っていることに気付いたりする。
その石は、大親友という名前だったかもしれない。
アクウェインタンスだったかもしれない。
ただ、すれ違っただけの人だったのかもしれない。
名前なんてなくても、歩いてきた足元には、今も光る石がちゃんとある。
「友だちと出かけるの。」って言えばいい。心のままに。
天羽詞鏡
2026.08.04