第1話『首輪』

第1話『首輪』

記事
小説
短編連作『かぐや姫』より
ー人生には、役目が終わったことに気づく瞬間があります。
 この連作は、そんな瞬間を書き留めたものです。

第1話『首輪』

昼下がりの台所で、コップを洗う夫の腰に腕をまわして抱きつく私は、その柔らかな腰のたるみに、骨ばった胸の合わない形に、疲れが溶けてはいかぬかと、空っぽが少しは埋まってくれぬかと思いながらくっついてみる。
ぐるっと回った腕の先でつながれた私の指先とは対照的に、夫の腕は宙に放れたまま私には近づかない。その腕はまるで何物も縛りつけないのが自らの性質と主張するかのように、脱力している。放たれたくて仕方ない私が、何かを求めて張り付くことが、滑稽なのと同じように、アンバランスな私たちは、何を交換し合っていたのだろう。

夫は一体私に何を求めているのか?と考えてみる。
家に入れてもらえず、庭先で通行人に吠えつく犬みたいに、私は寒さの中に居場所を決められている。あの犬の役目は何なんだろう?と、とんと最近見なくなった外飼いの犬に思いを馳せる。あの犬は、自由のない身で、守れる範囲の限られた鎖の長さの中で、必死に家を守ろうとしている。家に入りたいなんて思ってない。そもそも飼い主がつなぐ鎖も、周りの安心を生み出すだけのものだったんだ。
犬は、一番に何したいって聞かれたら、何したいって言うんだろう。家を守りたいって言うかもしれない。
その一方で、私はその誰かのための安心装置をとりあえず外してみたい。
鎖が外れた犬は家に留まるだろうか?私は留まらないのだろうか?

夫は、透明で一見見えない首輪を付けながら、真っ赤な目立つ首輪の私を見て、何を思うんだろう。

私たちは、お互いを何が結び付けているかなんてお構いなしに、必死に目の前だけを見て進んできた。その毎日は、家事をして、子供の世話をして、仕事して、その都度目の前に置かれたものを大切なんだと信じて、ここまで来た。
確かにそれらは大切ではあったと思う。そのお陰で必死にもなれた。でも今の私には何も考えずに過ごすには暇な時間がある。

一心不乱に目の前に集中できた頃、気付かぬ内に、私たちの日常を、子供たちが、ペットたちが色塗りをしていたなんて知りもしないで、まるで私たちの幸せの色は私たちそのものだとでも言うように、子供の成長を共有し合い、その日の散歩で犬がウンチを何回したか?と確認し合った。子供が歩いて、走って、上手に食べて、友達を作ったりけんかしたり、得意なことを見つけては、そんな色とりどりの日常はずっとずっと自分たちの日常なんだと信じて、私は真っ赤な首輪さえも勲章のように走ってきた。

いつか首輪だけが重く首にのしかかる日が来るなんて知りもしないで。透明の首輪を付けてゆったり歩く夫の隣で、人の肉の温もりを確かめる私は、Tシャツ越しに感じる柔らかさとほんのり生きた人間の熱が感じられれば十分なんだと、夫の腰にまわした腕に気付かされた。

私はなにがしたいんだろう?と、首の輪っかに触れていた。


天羽詞鏡
2026.07.26
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