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ひとつぶんの恋
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凪_なぎ_言葉で心に凪を
2026/09/06 01:02
雨の日は、嫌いじゃなかった。
窓をつたう雫を眺めていると、街の音が少し遠くなる。
人の話し声も。
車の音も。
何より――ここにいるときだけは、自分が自分でいられる気がした。
だから碧は、雨の日になると、郊外にある小さなカフェへ行った。
駅から歩いて二十分ほど。
坂道を下ったところにある、古い木造の店。
大きな窓。
静かな音楽。
珈琲の香り。
碧はいつも、窓際の席に座った。
「アイスコーヒーを」
注文を済ませ、窓の外を見る。
雨は、まだ降っていた。
「お待たせしました」
店員が飲み物を運んできた。
「ミルクティーです。」
「……え?」
目の前に置かれたのは、アイスミルクティーだった。
「すみません。俺、アイスコーヒーなんですけど」
「あっ、申し訳ありません!」
店員が慌てて伝票を確認した。
「……あの」
隣から声がした。
振り向く。
一人の女の子が、アイスコーヒーを持って立っていた。
「たぶん、それ……私の」
「……あ」
二人で、それぞれの飲み物を見る。
「じゃあ、これが俺の?」
「たぶん」
「交換する?大丈夫だよ、口つけてないから」
「うん、交換」
二人は飲み物を交換した。
「ふふっ」
女の子が笑った。
「どうしたの?」
「初めて会った人と、いきなり飲み物交換することになるなんて」
「確かに」
「なんか面白いね」
彼女は笑ったまま言った。
「私、翠」
「……碧」
「碧くん?」
「うん」
「よろしくね」
「こちらこそ」
たった、それだけだった。
雨の日の。
ほんの小さな出来事だった。
なのに。
碧は、その日の帰り道。
ミルクティーの甘い匂いを、いつまでも覚えていた。
*
次にカフェへ行ったとき。
翠がいた。
「あ」
「また会ったね」
「偶然?」
「たぶん」
「じゃあ、ここ座っていい?」
「もちろん」
それから。
二人はよく会うようになった。
偶然のはずだった。
けれど。
いつの間にか、同じ時間に店へ来るようになった。
「よく来るね」
「碧くんも」
「ここ好きなの?」
「うん、好き」
翠はそう言うと続けて、
「ここにいるときだけは、自分が自分でいられる気がするの」
「一緒だ、俺もそう」
「一緒だ」
「うん、一緒」
碧と翠は同じように目を細めて笑いあった。
「今日は何飲むの?」
「ミルクティー」
「いつも?」
「うん」
「飽きない?」
「好きだから」
「甘いの好きなんだ」
「碧くんは?」
「珈琲」
「苦いの好きなんだ」
「うん」
「正反対だね」
「だからいいんじゃない?」
「……何それ」
翠が笑った。
話すことは、何でもなかった。
好きな音楽。
最近読んだ本。
学校のこと。
昔のこと。
今日あった嫌なこと。
「碧くんって、意外と優しいね」
「意外って何」
「もっと怖い人かと思ってた」
「失礼だな」
「ごめんごめん」
翠が笑う。
その笑顔を見ると。
なぜか、胸の奥が温かくなった。
閉店時間が近づいても、二人は帰らなかった。
「もう帰らなきゃ」
「うん」
「……帰りたくない」
「俺も」
「じゃあ、もうちょっとだけ」
「うん」
二人は閉店まで話した。
「また来ようね」
「うん」
「約束」
「約束」
その頃には。
二人とも、もう気づいていた。
好きだ。
*
「碧くん」
「ん?」
「手、貸して」
「なんで?」
「いいから」
碧が手を出す。
翠の細い指が、そっと絡む。
「……あったかい」
「翠の手、冷たい」
「温めて」
「いいよ」
「うん。ずっと」
「……分かった」
碧は翠の手を両手で優しく包んだ
「……あったかい」
別の日。
「碧くん」
「なに?」
「好き」
「……急だな」
「言いたかったの」
「俺も好き」
「どれくらい?」
「分からないくらい」
「じゃあ私の勝ち」
「なんで?」
「私のほうが、もっと好きだから」
「俺も負けてない」
「じゃあ競争ね」
「何の?」
「どっちがもっと好きか」
「……絶対負けない」
「ふふっ」
くだらない。
本当に、くだらない。
でも。
二人には、それが幸せだった。
*
好きすぎるから?
少しずつ、おかしなことが起き始めた。
「昨日、楽しかったね」
「……昨日?」
「うん。昨日」
翠は不思議そうに首を傾げた。
「昨日も碧くんとお話したじゃない」
「……俺、昨日は来てないよ」
「え?」
「朝からずっと家にいた」
「……嘘」
「嘘じゃない」
翠の顔から、少しずつ笑顔が消えていく。
「でも……私昨日、碧くんと確かにお話したよ」
「俺じゃないって」
「だって……碧くん、不思議な体験したって…」
翠は言葉を止めた。
昨日、向かいに座っていた人の顔も。
声も。
笑い方も。
全部、碧だった。
なのに。
目の前にいる碧は、それを知らない。
「……変だね」
翠が呟いた。
「不思議な体験って?」
「白い部屋に男の人といた、って」
「俺、知らない」
「その人と話をしてたら急に眠たくなって寝ちゃった、って」
「変なの…」
別の日には。
碧のほうが戸惑っていた。
「翠、昨日さ」
「うん?」
「俺が貸した本、読んだ?」
「本?」
「昨日、渡しただろ」
「昨日?」
「うん」
「私、昨日来てないよ」
「でも……」
「碧くん」
翠が不安そうに碧を見る。
「誰かと間違えてない?」
「……そんな事あるわけ……」
「翠も言ってた」
「何を?」
「白い部屋の夢を見た、って」
「知らない」
好きなのに。
会えば嬉しいのに。
一緒にいると安心するのに。
どうして。
こんなにも話が噛み合わないのだろう。
*
喧嘩も増えた。
「昨日のこと、覚えてないの?」
「だから、知らないって」
「私と話したでしょ?」
「話してない!」
「なんで怒るの?」
「翠だって怒ってるじゃん!」
「だって……!」
翠の目に涙が浮かぶ。
「碧くん、最近変だよ」
「翠だって」
「私?」
「うん」
「……嫌いになった?」
「そんなわけない」
「じゃあ、どうして?」
「分からないよ……」
碧も俯いた。
「俺だって……」
「うん」
「翠のこと、分からなくなるのが怖い」
翠の涙が、ぽろりと落ちた。
「私も」
二人の手が、テーブルの上で重なった。
「でも」
翠が言う。
「なんか怖いよ」
「俺も」
「わけわかんない」
「うん」
「なにがどうなってるの?」
「うん」
「……好き?」
「好き」
「私も」
分かっているのはそれだけ。
それだけは。
何があっても変わらなかった。
*
ある雨の日。
翠は窓の外を眺めていた。
「ねえ、碧くん」
「ん?」
「私たちって、不思議だね」
「……うん」
「すごく近くにいるのに」
「うん」
「時々、すごく遠い」
「俺もそう思う」
「でもね」
翠が碧を見る。
「碧くんといると、安心する」
「俺も」
「なんでだろうね」
「分からない」
「……分からなくてもいいか」
「うん」
翠が、碧の肩に頭を預けた。
「もっと近くにいたい」
「俺も」
「ずっと一緒がいい」
「うん」
「ずっと」
「うん」
少しの沈黙。
「ねえ」
「なに?」
「ひとつになれたらいいね」
碧は翠を見る。
「……ひとつ?」
「うん」
「どういう感じだろう」
「分からない」
翠は笑った。
「でも、今よりもっと近くにいられそう」
「……それならいいな」
「ね?」
「うん」
雨の音が、二人を包んでいた。
*
最後に会った日も。
雨だった。
テーブルの上には、二つの飲み物。
アイスコーヒー。
ミルクティー。
「最初の日みたい」
翠が笑う。
「うん」
「あの日、飲み物が間違えられてなかったら」
「会ってなかったかもな」
「そうだね」
「でも」
碧はミルクティーを見る。
「間違えてくれてよかった」
「うん」
翠は窓の外を見た。
「雨の日だったね」
「うん」
「今日も雨」
「うん」
「なんか、最初に戻ったみたい」
碧は笑った。
「そうだな」
翠が碧を見る。
「碧くん」
「ん?」
「大好き」
「俺も」
「すごく好き」
「俺も、すごく好き」
「もっと近くにいたい」
「うん」
「ずっと一緒にいたい」
「うん」
「ねえ」
「なに?」
「ひとつになろう」
碧は、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
でも。
碧は、すぐには目を閉じなかった。
「……待って」
「どうしたの?」
「……ひとつになるって、どういうことなんだろう」
翠は答えられなかった。
「……分からない」
「俺、翠と一緒にいたい」
「私も」
「でも……翠じゃなくなるのは嫌だ」
翠の目に、涙が浮かんだ。
「私も、碧くんじゃなくなるのは嫌」
二人は黙った。
「一緒にいる」ためにひとつになりたいのに。
でも。
ひとつになってしまったら…
「一緒にいる」ための、二人がいなくなる気がする。
「……じゃあ、やめる?」
翠が小さく尋ねた。
「うん……」
碧は頷いた。
二人は、そっと手を離した。
これでいい。
そう思った。
なのに。
離れた手が、もう一度触れた。
翠の指が、碧の指を探す。
「……離れたくない」
「俺も」
「でも、消えたくない」
「俺は、碧でいたい」
「私も、翠でいたい」
二人は泣きながら笑った。
「難しいね」
「うん」
「一緒にいたいのに」
「うん」
「ひとつになれば、一緒にいられると思ってた」
「でも……違うのかもね」
碧が翠の手を握り直す。
「じゃあ、どうする?」
翠は少し考えてから、首を横に振った。
「分からない」
「俺も」
それでも。
二人は手を離さなかった。
「……怖いね」
「うん」
「それでも、好き」
「俺も」
翠が、そっと目を閉じる。
碧も目を閉じた。
「うん」
唇が触れた気がした。
柔らかく。
静かに。
雨音の中で。
「……あったかい」
「うん」
「碧くん」
「なに?」
「大好き」
「俺も」
「ずっと」
「ずっと」
二人は抱きしめ合った。
そして。
その境目が、少しずつ分からなくなっていった。
翠の笑顔。
碧の声。
碧の寂しさ。
翠の優しさ。
ミルクティーの甘さ。
珈琲の苦さ。
雨の日。
窓際の席。
初めて会った日。
初めて名前を呼んだ日。
手をつないだ日。
喧嘩した日。
仲直りした日。
好きだと言った日。
キスをした日。
全部が。
静かに混ざっていく。
もう。
どちらの記憶なのか分からない。
どちらの声なのか分からない。
けれど。
大好き。
その気持ちだけは。
不思議なくらい、はっきりしていた。
――ずっと一緒。
――うん。
二つの声が重なって。
やがて。
ひとつになった。
*
雨が降っていた。
少女は、目を覚ました。
窓の外を眺める。
今日は、雨。
「……なんだろう」
胸の奥が、少し寂しい。
でも。
理由は分からない。
しばらくして。
少女は傘を持って家を出た。
なぜそうしたのか。
自分でも分からなかった。
気づけば。
一軒のカフェの前に立っていた。
「……ここ、初めて」
そう呟いた。
なのに。
どこか懐かしい。
扉を開ける。
小さなベルが鳴った。
珈琲の香り。
木の匂い。
静かな音楽。
胸の奥が、きゅっとなる。
「お好きなお席へどうぞ」
店員の声に促されるように。
少女は窓際の席へ向かった。
なぜか。
そこに座りたかった。
「ご注文は、アイスコーヒーとアイスミルクティーでよろしかったですか?」
「……え?」
まだ何も言ってないのに
「なぜ?」
店員が不思議そうに頷く。
「いつも同じオーダーでしたので、今日もそうかと…失礼しました。何になさいますか?」
なんだろう。全然変な感じがしない。
それが当たり前のような。
「いえ、それでお願いします」
「かしこまりました」
二つの飲み物が運ばれてきた。
「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
少女は、まずミルクティーを一口飲んだ。
「……甘い」
次に、アイスコーヒー。
「……苦い」
なぜか。
涙が一粒、頬を伝った。
「……変なの」
胸の奥の奥の方がチクリとした。
少女は笑った。
何かを思い出したわけではない。
誰かの顔も。
名前も。
声も。
何ひとつ、はっきりとは浮かばない。
ただ。
胸の奥に。
温かなものがある。
とても大切なもの。
ずっと昔から知っていたような。
でも、今日初めて触れたような。
そんな不思議な感覚。
少女は窓の外を見る。
雨が降っている。
その景色を見ていると。
なぜか、言葉が浮かんできた。
言葉にしたくなった。
「……大好き」
誰に向けた言葉なのか。
分からない。
それでも。
口にした瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
まるで。
誰かが笑ったように。
少女はミルクティーをもう一口飲んだ。
甘い。
それから珈琲を飲む。
苦い。
二つの味が。
胸の奥で静かに重なった。
雨は、まだ降っている。
始まりの日と同じ雨。
終わりの日と同じ雨。
けれど。
何かが終わった気はしなかった。
むしろ。
ずっとここにあった何かが。
ようやく、自分の中に馴染んだような。
そんな気がした。
少女は窓際で、一人静かに笑った。
名前は思い出せない。
顔も思い出せない。
どんな声だったのかも、もう分からない。
ただ。
誰かを好きだった。
誰かと一緒にいたかった。
そして。
その想いだけが。
今も、この胸の中にある。
ふたりぶんの恋が。
ひとつぶんの心になって。
静かに。
静かに。
生き続けていた。
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