短編小説制作サービスの掲載サンプルです。オリジナルキャラクターによる全年齢作品で、言葉と本音のずれ、男女間の距離感を描いています。
制作補助として生成AIを使用し、構成判断、文章の選別、加筆修正、整合性確認、最終調整は作者本人が行っています。
閉店の札を裏返したあとで、千夏は窓際の男に気づいた。
雨に濡れた肩。空になったコーヒーカップ。左手の指先で、銀色の鍵を弄んでいる。
雨ざらしで台無しになった黒髪のセットは、どうにもあの頃を思い出させた。水も滴るいい男と、思った時期もあった気がする。
「お客さん、もう終わりです」
「知ってる」
三年ぶりに聞いた声が、耳に沁みる。変わっていなくて、そして思ったより不快じゃない。
千夏はカウンターの内側から出なかった。床には彼が落とした雫が続いている。昔ならタオルを渡した。風邪ひくよって。今は……店内清掃の手間がひとつ増えた以上の感情はない。折よくレンタルモップの交換も明日だ。
「だったら帰って」
「これ、返そうって、思ってさ」
彼が鍵を持ち上げる。青いプラスチックの札には、油性ペンで三〇二と書いてあったが、少し掠れている。千夏が昔住んでいた部屋の番号――あれから努めて何も思わないようにしてきた数字。
「そこ、もう違う人が住んでる」
「うん」
「当たり前だけど、鍵も替わってるよ」
「それも知ってる」
彼はいつも、必要な言葉だけ遅かった。
千夏はレジを閉めた。金額が合わない。もう一度数え直す。一万円札が一枚、五千円札が二枚。大したルーティンじゃないのに、こんな日に限って指が二重に札をめくる。それも何度も。かすかに確実に、苛立つ。
「返してほしいって、私、一度も言ってないけど」
「言われなかったから、返せなかった」
「人のせいにしないで」
「そういうつもりじゃ……いや、ごめん」
きまり悪そうに頭を掻く彼を視界に入れない努力をしながら、千夏はようやくレジ金を合わせきる。記入した台帳を引き出しにしまう。最後に鍵をかけて、レジ〆の作業をようやく終える。
「そこに置いてくれる?」
彼は青いプラスチックの札に目を落とし、テーブルへは置かなかった。
「手渡しじゃ駄目?」
「駄目」
「どうして」
「触るじゃない」
彼が少し笑った。
「笑わないで」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「千夏、変わってないね」
「帰って」
声は思ったより小さかった。ぴしゃりと遮るつもりだったのに。
悔しさは伝わっていないと思う、きっと。
少し困ったように眉を下げた彼は立ち上がり、今度こそテーブルに鍵を置いた。銀色の輪がガジュマルの鉢に触れ、軽い音がした。手も触れず、謝罪も続かず、三年前の続きも始まらない。
扉を開けた彼の背中へ、千夏は投げつけるように言った。
「傘」
彼が振り返る。
「忘れてる」
入口の傘立てには、透明なビニール傘が一本だけ残っていた。彼はそれを見て、千夏を少しだけ訝しげに見た。
「俺のじゃないよ」
「そうなんだ」
何事もなかったかのように千夏は鍵をレジ横の引き出しへ放り込んだ。
カウンターの外へ出て、彼が使ったテーブルを拭く。モップがけより先に、コーヒーカップを片付けた。傘立てのビニール傘は、そのままにした。
扉の向こう。雨脚の強い音がする。
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