オリーブの木を折る-2)コンクリートの柔らかさ

オリーブの木を折る-2)コンクリートの柔らかさ

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何が気に入らなかったのか、わからない。わからないことが、わからない。

わかろうとすればするほど、足元から靄もやが立ち込めてきて、視界を静かに遮る。自分の手のひらさえ見えない程で、ついさっきまではっきり見えていた足元の様子はわからない。

怒りに任せて、家じゅうのモノが壊される。

買い直せばすむものも、高くて買い直しまでに時間がかかるものもある。そのなかでも、もう二度と手に入らない買い直せないものもある。

人の心などという、陳腐なものではない。

僕は大学生時代に8ミリ映画を撮っていた。クローゼットの奥底に眠っていた、もはやモノとしては死んでいた、だが、決して誰かが葬っていいものではない「なにか」がそこにいた。

ハサミでギッタギタに切り刻まれ、それらは床の上で威張り散らしている猫の毛たちと混ざり合った。ただのゴミとなった。僕からしても、こうなってはただのゴミなのだ。

仕事から帰宅後、娘の部屋の灯りがついている。ウナギの寝床ながらも振り分けタイプの3LDK、娘にはリビングダイニングの次に広い部屋をあてがっている。

娘の部屋をノックする。

「リビングに取っ散らかってる、フィルムって……」
そこで言葉が喉の奥に引っかかって、一切音が出なくなった。
「あーー?」
邪魔をするなという意思がドア越しに聞こえる。
「あのさぁ……」
やはり言葉が出ない。引き戸がピシャッと勢いよく開く。
「うるせぇ、カス。話しかけんな、死ね」

この子は本当に僕と血がつながった82億分の1なのだろうか?

仕方がない、ここで全部を壊す方が、あとで作り直しもできるだろう。まだ高校生だ。やり直すのはいつからでもできる。

マンションは5階という微妙な高さで、ベランダの下は芝生ではなく、打ちっぱなしのコンクリートだ。

「じゃぁ、そういうことで」
と僕は、ベランダに向かった。妻は二年前に家を出て行ったきりで、滅多に連絡はしない。娘は妻の住所も知らない。むしろ妻からは教えないようにと言われている。

大学は現役で文系私立・4年分と人が一人生きていけるだけの蓄え、それに生命保険もある。受取人はまだ妻のままだが、配分はしてもらえるだろう。マンションのローンも特約で免除になるし、気になるのは猫のリュリュだけだ。

ベランダからもう一度リビングに戻り、リュリュのフードの購入サイト・かかりつけ医とセカンドオピニオンの連絡先、をメモで書き記しておいた。冷蔵庫に張り付けておき、遺書の封筒と一緒にマグネットで固定した。

エアコンを切る。ベランダの室外機がマラソンを終えたランナーのようにいつもの自分に戻るべくと整えている。

バルコニーのオリーブと目が合った。妻が育てていた植物たちはことごとく枯れていった。水を与えるだけでは育つどころか、死に絶えることもある。毎日水を与えてもダメだ。根腐れをするということも初めて知った。

子育てと植物育成を重ねる人は、頭がどうかしていると思う。

子どもも植物も可愛がっても、愛情を注いでもそれに応えてくれるわけではない。そこは同じだ。だが、植物は育ててくれる相手を攻撃しない。子どもからしても同じかもしれない。花が咲かなくても、植物は不安がられない。育てる側はそこまで植物に期待をしていないからだろう。

思い返す。娘に何か期待したことがあっただろうか。

特に思い当たらない。無関心だったわけではない。
世間の親並みに「大学に行けるなら、行った方がいい」と話したぐらいだ。
妻が出て行った後にも、何度か話したことがある。

妻は、近くのスーパーでレジパート社員として働いていた。娘が中学生に上がった頃からだ。娘の接点も必ずしもべったり密着したものではない。夏休み、冬休みもつかず離れずの距離感を保てていたと思っていた。

妻は、娘からひどい言葉と暴力を一身に受けていた。

僕は、うすうす気づいていたが、女同士だからぶつかることもあるし、女同士だから分かり合えることもあると高を括っていた。

男同士で分かりあえただろうか。僕は父と折り合いが悪かった。父の晩年、軽トラックで一人暮らしだった僕のアパートに来て、ドア越しに包丁を突き付けられた。見かけた隣の関谷さんが通報してくれて、父は逮捕された。理由はわからないけれど(おそらくそんな老人を拘置所に置いておいても、起訴して裁判をしても、無駄と判断されたのか)、不起訴になり母に捨てられて風呂場で惨めに死んだ。

男同士、性別が同じでも分かり合えないことを知っていながら、妻と娘は大丈夫だと勝手に都合よく変換していた。

妻はパートに出て行ったまま帰らなくなり、寝室から置手紙が見つかり、僕とも娘とも縁を切ると書かれていた。後々僕には新しい住所を教えてくれたが、連絡はしないようにと念を押された。

仕事も変え、娘と向き合った二年間。それまで妻が一身に受けてきた言葉の数々と、不意を打つ暴力は全て僕に向かった。さらに、破壊という新しいアクションが増え、家じゅうの形あるものは、形がわからないところまで彼女によって駆逐されていった。

そして、最後に残った僕も、例外なく壊されたのだ。

バルコニーの手すりに足をかけたまま、どれくらいの時間が経ったのか。目があったはずのオリーブは実をつけていた。明るい緑色の実がふたつ、じっと僕を見ている。

僕は無意識に目を逸らした。それは最後のチャンスだったかもしれないのに。チャンスを手に入れたとしても、先延ばしになるだけだと思い返す。さらなるピンチに、僕はもう耐えられない。

軽く会釈をし、身体をくるりと反転し、室内側に向いた。

コンクリートが思いのほか柔らかかった。階下の住人がありったけのクッションやマットレス、タオル、を敷き詰めてくれたらしい。

退院後、僕は家に戻らず、妻がそうしたように娘を捨てた。
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