同じ出来事が起きても、人生は同じになりません。
分かれるのは出来事ではなく、それを見ている私の前提です。
だから、現実を変える前に、私と向き合う必要がある。
その人にしかわからない価値があります。
みんなが同じものに価値を感じるわけではないし、
同じ景色を見ても、見えているものは違います。
なぜ違うのか。
理由は単純で、興味が違うからです。
興味は、知覚のフィルターです。
何に関心を向けるかで、世界のどこが立ち上がるかが変わります。
たとえば容姿。
容姿に意識を向けている人は、変化に気づきやすいし、変化を起こしやすい。
肌のツヤ、服装、姿勢、表情。細部が気になり、整え、結果として見た目が変わっていく。
逆に、そこに関心が薄ければ、同じだけ変化の余地があっても、ほとんど見えません。
意識を注ぐとは、そこにエネルギーを注ぐことです。
目に見えるかどうか以前に、まず関心が世界を切り取っています。
ここで言いたいのは、不思議な力の話ではありません。
むしろ、よくある人間の習性の話です。
人は、理解できないものに遭遇すると、落ち着くために名前をつけたくなります。
神様、霊、奇跡、偶然。そういう言葉でまとめると、一旦おさまる。
でもそれは、本当に分かったからおさまったわけではなく、
分かったことにして安心しただけ、という場合が多い。
わからないものに恐れを抱くのも、人間の習性です。
だから神様という概念を置くと、恐れも含めて、いろいろな感覚が起きやすくなる。
そして多くの人は、神様がいるかいないかを議論します。
ただ、ここに重要なズレがあります。
いるかいないかの議論が重要ではない、
というより、実際の体験の多くは、前提で決まってしまうんです。
いる前提にすると、いるように感じられる。
いない前提にすると、いないように感じられる。
なぜでしょう。
そうであるようにしている私がいるからです。
いないと言う人にとっては、仮に目の前に何かがあっても、いないという解釈が勝つ。
いると言う人にとっては、そこに何もなくても、いるという解釈が立ち上がる。
これは神様に限らず、人生のほぼ全部で起きています。
似た話を書きます。
お金持ちの家に生まれて、何不自由なく過ごしたことが不幸だと言う人がいます。
その人にとっては、不幸以外の何物でもない。
一方で、明日食べるご飯を心配しながら、それでも幸せだと言う人もいます。
その人にとっては、幸せなんです。
もちろん、外側の条件は影響します。綺麗事を言うつもりもありません。
でも同じ条件でも意見が分かれる。まったく同じ生活をしても、解釈が分かれる。
ここに、見逃せない事実があります。
現実の体験は、出来事そのものより、捉え方で決まってしまう部分が大きい。
これは大人なら誰でも知っています。
なのに別の場面になると、急にそれを無視します。
どうして自分と同じように考えられないんだ、と相手を責め始める。
知っていることを、都合よく忘れる。
しかも忘れていることに気づかない。
ここからが本題です。
このズレに気づいたとき、あなたはどうしますか。
多くの人は、そのままにしておきません。
気づいたら、やるかやらないかを選べる。
たとえば、もしズボンをはき忘れて外を歩いている人がいたとします。
気づかないうちは平気です。
でも気づいたら、ものすごく恥ずかしい。
すぐに直したくなる。
人は形を変えて、これに近いことを日常でやっています。
気づいていないうちは、平気。
気づいた瞬間に、恥ずかしくて直視できない。
そして厄介なのは、直すより先に、なかったことにしようとする人がいることです。
はき忘れてますよ、と言われても、いや、はいてると言い張る。
見えない話にできる分だけ、言い逃れができるからです。
さらに厄介なのは、周りもそれに巻き込まれることです。
その人ははいてることにしよう、となっていく。
本当のことを言う人のほうが攻撃される空気が生まれる。
ここで大事なのは、勝つとか負けるとかではありません。
ちゃんと見ればいい。見えるものは見える。
多数決で事実が決まるわけではない。
目を閉じないで生きるのは、最初は苦しいです。
身の回りのおかしさに気づいてしまったのに、どうにもできない。
そのとき人は、目をつむることで生き延びます。
見なければ、苦しみが鈍るからです。
でも、目を開けたままでも平気になる道があります。
それが、私を見るという方向です。
家族や周囲を見て、あれはおかしいと思う。
でも変えられない。
その行き止まりで、目を閉じるか、私を見るかが分かれます。
私を見るとは、自己否定でも、反省会でもありません。
まずは、そう考えている私を見ることです。
今、自分は何を前提にしているのか。
今、自分は何を見たいことにしているのか。
今、自分は何を見ないことにして安心しているのか。
ここに手を入れると、外側の状況が同じでも、体験が変わり始めます。
よくなる、悪くなる、変わらない。
そういう評価の話にすると、また思考が暴れます。
起きるのは、変化です。まず変化が起きる。これはかなり確実です。
派手ではありません。
むしろ地味で、繰り返しです。
手順としては、こうです。
反応が出たら、出来事の正しさより先に、私の反応を観る
私は今、何を前提にしているかを探る
私は今、何を守るためにこの前提を握っているかを見る
それでも握りたいなら握る。手放せるなら手放す。選ぶ
ここで誤解が起きやすい点があります。
私を見ると言うと、見ている私という存在を作りたくなる。
観察者がどこかにいるはずだ、と。
でもそれも習性です。言葉が生む誤解でもあります。
だから、難しくしなくていい。
ただ、そう考えている私を見る。それを続ける。
続けた分だけ、向き合った分だけ、結果が伴ってきます。
もちろん、一回で完璧に向き合える人はいません。
一筋縄ではいかない。
それでも、段階があります。深さがあります。
浅いところが混ざり、次にもう少し深いところが混ざる。
その混ざり方が変わると、感じ方が変わる。選び方が変わる。
悟りや覚醒を目指す人にとって、ここは逃げ道がありません。
外側の正解を探すほど、私は見えなくなる。
世界を理解しようとするほど、私の前提が固定される。
本質はひとつです。
私を見続けること。
見えるものを、見えるままに。
はき忘れているなら、はき忘れている。
そこから先は、恥ずかしさを誤魔化すか、淡々と観ていくか。
人生の差は、そこに出ます。
もし今、目を開けているのがつらいなら。
それは壊れているからではなく、もう気づき始めているからです。
気づき始めた人だけが、私を見るという入口に立てます。
その入口から先は、派手な奇跡ではなく、静かな変化です。
でも、その静かな変化が、世界の見え方そのものを変えていきます。