寄り添われて安楽死

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もしかしたら味方はいないかも


「その感覚は正しいですね」



そう言われた瞬間、人は少しだけ思考を止める。



なぜなら、もう自分で確かめなくてよくなるから。



寄り添いは優しい。

だが、その優しさは判断を奪う。





寄り添いが危険なのは、間違った時ではありません。



当たっている時です。



的外れな言葉には反発できる。

だが、的を射る言葉は、人を静かに座らせます。



「ここにいれば大丈夫だ」

「自分は間違っていなかった」



そうして安住という檻に自ら入ります。







SNSなどでフォローバックを狙う発想を

「嫌だ」と感じた。



それが良い悪いではなくて、人を数として扱う構造への違和感を私が感じた。



関係を交換条件に落とし、

書く前から相手を使う前提に立つ視線。

そう感じ、嫌だなと思った。





そんな時に、その違和感に対して誰かがこう言ったらどうでしょうか。



「その感覚は健全だ」

「あなたは分かっている側だ」



その瞬間、

違和感は問いではなく立ち位置に変わる。



自分は「安全な側」にいる。

自分は「間違えない人間だ」



そうして思考は、

静かに止まる。



思考の杭:なぜ「分かっている側」にいたいのか


人はなぜ、「分かっている側」にいたがるのか。



それは、

考え続けなくて済むからだ。



正解側に立てば、

疑わなくていい。

検証しなくていい。

責任を引き受けなくていい。



寄り添われることで、

人は救われるのではない。



固定される。



評価する者と、評価される者。

導く者と、導かれる者。



この非対称が生まれた瞬間、

言葉は支えではなく、

位置を固定する杭になる。



善意かどうかは関係ない。

意図しているかどうかも関係ない。



構造がすでに、支配的。





もし、ここまで読んで、「その通りだ」と考えたなら、

一度立ち止まってみてください。



今あなたは、

この文章を新しい正解として受け取っていないか。



この言葉に、寄り添われていないか。



納得して、

安心して、

考える手を止めていないか。





自由は、報酬じゃない


自由とは、気持ちのいいだけの状態ではないです。



誰にも正解を預けられない状態でもあります。



確認してくれる人はいない。

「それでいい」と言ってくれる声もない。



間違えた時、引き受けるのは自分だけ。



孤独かもしれない。

そして、逃げ場がない。



それでもなお、自分で考え続けることを選んでいく。







安心をくれる言葉は多い。

でも、あなたの人生の責任を引き受けてはくれない。

誰ひとりとして。





最後に


この文章を読んで

納得していたら、あなたは今、誰の言葉の中に安住してますか?



そして──それでも自分で考え続ける覚悟はありますか。
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