世界には、疑いようのない自然法則があります。
物は落ち、
水は低い方へ流れ、
熱いコーヒーは時間とともに冷めていく。
これらは、誰の都合も挟まない「当たり前」です。
しかし——
あなたが日常で何気なく使っている
「普通だよね」「当たり前でしょ」
という基準は、自然法則ではありません。
それはただの 概念。
しかも、誰かの都合によって後から作られた、人工の基準です。
「普通の生き方」
「普通の幸せ」
「普通の家族」。
これらは自然に生まれたわけではない。
なぜなら——
社会が人間を管理しやすくするために設計した枠だからです。
■「普通」とは、本来どこにも存在しない設計物
「普通の会社員として働くのが安心」
「結婚して家を買うのが普通の幸せ」
この普通らしさは、自然発生ではない。
それを必要とした主体が確実にいる。
国家には、税を安定的に納める「標準的な国民」が必要だった
企業には、従順に働き、従順に消費する「規格化された労働者と消費者」が必要だった
教育には、それらに適応できる「均質な人材」を大量生産する役割が課された
そんな普通は、もちろん人々のために作られたものではないと考えます。
社会システムの効率のために発明された基準だと。
広告が理想の生活を提示し、
教育がその理想へ向かうルートを示し、
社会制度がそれを「安全な生き方」として保護する。
こうして基準が形を持ち始めると、
そこに人が集まり、多数派になってくる。
「これが普通だよ」多数派の当たり前が普通。
で、多数派はその普通を作ったのか。
違いますよね。
多数派そのものが作られた。
基準が先にあり、
その基準に合わせて育てられた人々が「多数派」にされた。
ただそれだけのこと。
構造が生んだ反応としての数のかたよりです。
そして、人は数が多いほど安心する。
「みんなこうしている」という事実が、
その概念を自然法則のように見せてしまう。
こうして普通は、人を従わせるために作られ、
その枠に収まった人々が当たり前へと育てた。
当たり前になればなるほど、疑問が消えていきます。
教育とマーケティングが「普通」を身体に埋め込む
学校は、知識を与える場でもありますが、
「普通を内面化できる国民」を養成する施設でもあります。
同じ制服
同じ時間割
同じ答案
同じ進路指導
ここで子どもは学ぶ。
外れないことが安全であるという感覚を。
広告はその感覚に乗じて、普通の輪郭をさらに塗り固める。
「家族ならこの車」
「もうみんな持っている常識の家電」
「一般的な幸せの形をあなたに」
普通とズレる不安で欲求を刺激する。
普通とは、
集団の安心と消費行動を同時に生む、非常に効率的なプログラムです。
普通でないと後ろ指をさされると感じますか?
■「普通」の効力は、思考より先に恐怖を動かすこと
「いや、普通こうでしょ?」
この一言が放たれた瞬間、議論は終わる。
相手は反論しない。できない。
普通から外れることは、共同体から外れる恐怖と直結しているから。
「そんな生き方してたら社会に馴染めない」
「そんな考えじゃ結婚できない」
これらは幸福論ではない。
「お前群れにいられないよ」という警告。
もちろん、人間が共同生活を営む中で培ってきた
お互いが気持ちよく生きるための知恵もたしかにあって、それも普通と認識します。
列に並ぶとか、暴力をふるわないなど。
こうした行為は、誰かが押しつけた概念ではなく、
共に生きるための経験則として自然に共有されてきた。
しかし——
問題は、この生活の知恵という範囲を超えて、
個人の生き方にまで「普通」が入り込んでくる瞬間。
どこで働くべきか。
どう生きるべきか。
何を望むべきか。
本来は個々の自由であるはずの領域にまで、
「普通」が適用され始めたとき——
思考停止が起こり、望んでなくても「普通」を選択してしまう。
「作られた概念」を疑うことは、反抗ではない
普通を疑うことは、おかしいことではありません。
「この普通、誰のため?」
「それは本当に、自分が望んだ生き方?」
こうした問いを一度通しただけで、
普通は自然法則に見える人工物に戻ってきます。
従う義務は、どこにもありません。
普通という最強の拘束具を外す
普通とは、
最も巧妙で、最も強力な拘束具です。
自然法則のようで、その実体は「誰かが安心するためのフォーマット」
外れると混乱するかもしれません、恐怖が出るかもしれません。
でもそれは、あなたがおかしい訳ではありません。
もし「これが普通だから」と口にしそうになったら、
普通って何?って考えてみてください。
囚われが少しずつ減っていくでしょう。
そもそも普通の人などいませんから。