「マンハッタン1999」…西55丁目の恋愛小説③

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第三話「THE PENINSULA」

 東京。1999年、8月。  
 彩乃とはそれから月に何度か定期的に何度かファックスでやり取りをしたり、国際電話で話をするようになった。僕は東京のバーで真夜中しこたま酔っては、携帯電話から彼女に電話した。でも時差の関係で、彼女はいつも起き抜けか、もう仕事に出ていて不在で、彼女はにとってはさぞかし迷惑な電話だったに違いない。
 結局その夏、僕は彩乃に会いにニューヨークには行けなかった。
 仕事がずれ込んでレコーディングの日程が重なり、忙しくなったこともあった。またニューヨークの英語学校が夏休みに入ることもあり、急遽、ケイスケを東京に呼んで本格的にデモテープを録ることになり、レコード会社のスタッフも参加して僕たちは結局一週間、当時、山梨県の小淵沢にあった高原の滞在型のリゾートスタジオで合宿作業をした。
 ケイスケは、彼女からメッセージカードとプレゼントを持参して日本に帰ってきた。それは、ふたりでソーホーを歩いたときに、ソーホーのプリンスとグリーンの角のイタリアンカジュアルの店、REPLAYでさんざん悩んだ末に買うのをやめた夏のシャツだった。鮮やかなブルーのストライプのシャツはまるでふたりでトマトやスイートバジルを買って歩いた5月のマンハッタンの空のような鮮やかな空色だった。
カードにはこう書いてあった。 
「あれから、やっぱりこのシャツは絶対、亮平さんが夏に着るべきだと思い買い置きしておきましたが、夏に来ないなんて、うそつき!  
でも、私も今年の夏はなぜか仕事が大忙し、このまま秋まで忙しそうで、さびしくしているヒマもないかもしれません。
本当に会いたい。早く帰って来てね。              彩乃」 
「亮平さん、本番のレコーディングは絶対、ニューヨークでやりたいっすよね。しかも3ヶ月くらいかけて。東京の亮平さんってけっこう、マジで寂しそうですもん」  
と、ケイスケが言った。  
「そうかぁ?」  
僕は、スタジオの芝生の庭に出て煙草に火をつけ、マンハッタンにつながっている小淵沢の青空を見上げた。
 秋が過ぎて、冬が来た。 1999年12月20日月曜日。 
 マンハッタンは夜になると急激に冷え込んだ。銀行の気温掲示板は華氏で25°Fと表示している。摂氏に換算するとマイナス5℃くらいだろうか? クリスマスの雪の結晶のイルミネーションが街角に飾られ、店のどのショーウィンドウもグリーンと赤と白い雪のクリスマスディスプレイと、全米や全世界から集まったクリスマスショッピングの客であふれて、車道は車で、歩道は人波で渋滞していた。  
 僕が12月にニューヨークに来ることは、先月電話で話して彩乃に知らせておいた。しかし正確な出発や滞在のスケジュールが決まったのが1週間前だった。ニューヨークと東京は昼と夜が逆で、お互い忙しく留守電でやり取りをして最後決定した詳細のスケジュールをファックスで送っておいたのだが、成田空港で搭乗時間直前に会社に電話して調べるとアシスタントが一番大切な最後のファックスの通信記録のNGを発見した。  
 僕は今日の午後、ユナイテッドでニューヨークに着いた。5番街と54から55丁目の絶好のブロックに建つペニンシュラホテルは、あの香港の名門ホテルの系列、ペニンシュラ アット ニューヨークである。  
 ハリー・ウィンストンやティファニーの店先を見下ろす、56丁目の交差点の空中にワイアーでつるされた大きな雪のクリスタルのイルミネーションが手に取るように見える5番街に面した角の部屋にチェックインした。  
 彼女からのメッセージは入っていなかった。  
 僕は彩乃を捕まえようと電話をしたが、留守電になったままだった。ビーパーもうまくつながらない。
 今日の夜から、仕事がなければ空けて欲しいということ。ホテルがどこもいっぱいだけれど4泊だけペニュンシュラのジュニアスイートの予約が取れたので1泊でも2泊でもいっしょに泊まれたらいいと思っていること。その後、以前話してくれたように彩乃の招待に甘えてアパートに年明けまでしばらく滞在させてもらいたいこと。仕事は24日の昼間までで、その後、年が明けるまでプライベートで滞在したいと思っていること。いっしょにクリスマスと大晦日のカウントダウンを過ごせたらいいと思っていることなどを手短に留守番電話にメッセージで残した。  
 2時間ほど広い部屋のベッドで一人ぼっちでウトウトしながら連絡を待ってみたが、連絡が来ない。  
 しびれをきらし、バーで一杯やって待っていようと思い、ホテルの電話交換にもしも彩乃から電話があったら夜景で有名なこのホテルの屋上のバー「ペントップ」にいるので電話を回して欲しいと電話をかけたが、つたない英語が不安になった。フロントかコンシェルジュに直接話しておいたほうが良いと思い、ロビーに降りた。  
 ペニンシュラのロビーは家庭の心地よいリビングのようにとても小さいが、手入れが行き届いている。特にこの時期はその小さなロビーにびっくりするほど美しいクリスマスツリーの飾り付けがしてある。  
びっくりした!
エレベーターを降りると、フロントマンと話している彩乃がいた。 
「彩乃!」  
 僕は、名前を呼んだ。
 彼女は、振り向いた。
 映画のスローモーションのカットのように完璧な彩乃の美しい横顔だった。
 そして、満面の笑みを浮かべてこちらに小走りに歩いてきた。
 チャコールグレーのオーバーコートに黒いマフラーを巻いていて、なぜか小さなコーチの旅行鞄を持っていた。  
 フロントのレセプションの係員は、よかったですね、という顔で僕たちを見守り受話器を置いた。  
 僕と彩乃は、緑のもみの木のと赤いポインセチア、金や銀のリボンで作られたロビーのディスプレイの真正面で抱き合って、キスをした。  
「ごめん、急に2泊でお客さんの会議をアテンドすることになって、ワシントンに行っていたの。まさか今日来るなんて!
ファックスが届いていなかったから。お客さんたちをワシントンから日本に送って国内線でラ・ガーディア空港に着いて留守電聞いたらびっくり、このホテルの部屋に電話しても出ないし、とりあえずキャブで大急ぎで来たの!
留守電の内容全部了解よ!OKよ!」  
「そうか部屋で一瞬爆睡していて電話に気づかなかったのか、シャワー中だったのかな? でも本当によかった、会えて。
ちょうどいいじゃない!旅行バッグも持ってるし、このままチェックインしちゃえば?」  
「うん、このホテル憧れだったの!まさか、泊まれるなんて、感激!」
ふたりは抱き合いながら部屋に上がるエレベーターのボタンを押した。 荷物を置き、長いキスをして、僕たちは歩いてすぐのロックフェラーセンターに毎年飾られる大きなクリスマスツリーを見に行った。  
この年、1999年は11月29日に68回目を迎える点灯式が盛大に行われ、ニューヨーク州ブキャナンのヘディー家の高さ80フィート、重さ7トンもする樹齢80年のツリーが選ばれ運ばれたという。電球の数は3万個もあり目がくらみそうだ。
 僕たちは手をつないで声をなくして、小学生のようにその美しいイルミネーションを見上げた。  
 そこにたまたま日本人旅行者の若いカップルがいた。
デジカメなどほとんどなかった当時。僕は日本から持ってきた使い捨てカメラで僕と彩乃を、この巨大なツリーをバックに写真を撮ってもらうことにした。
そしてこの少しピンボケの写真は、今も残っている、たった一枚のふたりの写真になったのだ。 
 「はい、チーズ!あなたたちも観光ですか?いいですよね、この時期のニューヨーク。すみません、うちらもお願いしちゃって、ええですか?」  
 関西弁の観光客の男はそう言うとニコンのコンパクトカメラを差し出した。  ホテルに戻って屋上のバー・ペントップで僕たちは再会を祝してシャンパンで乾杯をした。 
 半年ぶりに出会えたこと、その間にどんな時間をお互い過ごしていたか、ふたりは、その夜ずっとずっとちょっとゴージャスにルームサービスを頼み、東京から持ってきた彩乃の好きな芋焼酎の魔王を飲みながら朝方まで部屋で話し続けた。  
 クリスマスイブまでの仕事はさほど大変ではなかった。ケイスケの楽曲のデモテープの仕上げと、大阪のFM局と組んでプロモーションの一環として企画を進めているケイスケがパーソナリティをつとめるニューヨークから発信するラジオ番組の企画パイロット版を制作するのが主な仕事だった。  
 クリスマスのこの時期、日本のお盆やお正月休みの東京のようにニューヨークは閑散とする。ショップもレストランもビジネスマンも店や会社を閉じて里帰りしてしまう。店を開けているのはインド人街のレストランくらいのものだ。
 智子もクリスマスイヴの前には車でミシガンのケニーの実家に帰ると言い、そそくさと仕事を終えたがり、ニューヨークに残るという僕の行動にも興味を持たなかった。  
 1999年12月24日。 
 クリスマスイヴの夜、彩乃のアパートに転がり込んだ。  
 僕たちはふたりだけで彩乃の部屋に小さなキャンドルのツリーを飾り、ケーキを買って彼女と僕の手料理で過ごした。ふたりで材料を仕入れ、彼女は極上の骨付きラムを香草入りの岩塩で包み、オーブン焼きにした。  
 僕はチャイナタウンまで新鮮な魚を買いに行き、東京では高価で手が出ない見事なグルーパー、日本名でハタという魚を探し、トマトやクラムやオリーブでアクアパッツァというイタリアの鮮魚の炒め煮を作った。  
 ワインも上等なシャブリとカリフォルニアのオーパス・ワンを張り込んだ。  「ねえ、来年も過ごしたいね、いっしょに」  
 プレゼントを交換した後に彼女が言った。  
 僕はいつか観たニューヨークを舞台にした映画で、まだ髪の長いメグ・ライアンが、
『マンハッタンで感謝祭からクリスマスや大晦日の間に恋人がいない人間なんて、自殺した方がまだましよ』
というセリフを言っていたのを思い出しながら、代官山のエリオポールで見つけて買った、フランスから輸入されたアンティークの腕時計をプレゼントした。彩乃は僕にハンティングワールドの大きめの黒いブリーフバッグをくれた。何かのときにウィンドウで見かけて、欲しいつぶやいたのを覚えてくれていてくれたのだ。 
 1999年12月31日、大晦日。 
 1000年に一度、1999年から2000年に変わるミレニアムの瞬間を僕たちはたぶん、地球上で一番ファンタスティックでエキサイティングな素晴らしい場所で迎えた。 
 それは、タイムズ・スクエアのど真ん中、ブロードェイの西側で現在のトイザラスの真正面にあるオフィスビルの23階のベランダだった。
 実は、日本のテレビ局がここのベランダからニューヨークのカウントダウンの瞬間を衛星中継するためにこのオフィスを借りていたのだが、そのプロデューサーが平塚の知り合いで、僕たちは平塚からこの思いがけないカウントダウンに招待されたのだ。1週間前からここに入るスタッフのネームリストを提出し、はるか57丁目の規制ラインから何度もポリスマンにこのエリアのビルに入る許可書をチェックされ、氷点下10度の街をダウンジャケットで防寒をして、たった10分のところを1時間以上かけて歩き、ビルの中に入り街頭でタイムズ・スクエアにその瞬間を待つ数十万人を真下に見下ろしながら、僕たちはミレニアムを待ち構えた。  
 セブンスアベニューとブロードウェイが分岐する三角ビルの大型スクリーンに数字が現れた。  10・9・8・7・6・5・4・3・2 Happy New Year!!!!!!!  ものすごい迫力のカウントダウンだった。  
 ゼロのその瞬間、僕は彩乃と見つめあいながら、寒さも忘れてバルコニーで興奮しながら何度もキスをした。  
 ゴー!!という歓声とともに、人々の熱気が上昇気流になって大量の紙吹雪が地面から猛烈な勢いで23階のベランダまで吹き上げ、大音響の歓声と音楽が鳴り響いた。
 その夜、僕たちは平塚たちと彼の行きつけのバー、アッパーウエストの「ピーターズ」で、夜明けまでスパークリングワインで2000年の幕開けを祝った。
 翌日、日本では元旦の風景になりのんびりとした気分になるのだが、マンハッタンは普通に仕事がはじまる。彼女もこの時期、正月休みを利用してやってくる日本からの観光客の対応に大忙しで、結局元旦からも仕事だった。  
 僕は、昼間はちょっと寂しいくらい、のんびりと過ごした。
ひまにまかせて、チャイナタウンのはずれのグランド通りで上手な中国人のマッサージを見つけたり、平塚たちが通うジムにもぐりこんだり、アムステルダム通りのビリヤード場、アムステルダム・ビリヤード・クラブ、通称ABCに通った。
 それでも、彩乃と夜はいつもほとんどいっしょに過ごせたが、仕事疲れの彼女を気遣いなるべく飲み歩かずに部屋で過ごすことが多かった。  
 名残惜しい別れを交わしながら僕は彩乃とのクリスマスと正月の休暇を終えて、日本に帰った。
 ニューヨークの家庭的な滞在はかえって心があたたかくなる毎日で、僕にとっても久しぶりのいい休暇になった。
 2000年5月、ニューヨーク。 
 彩乃と出会ってから丸一年の月日が経っていた。
 ケイスケはほぼ2年以上ニューヨークに滞在していた。英語学校の過程も終了し音楽的にも人間的にも成長していた。  
 金丸の描いた「絵」はニューヨークでのミュージカルの俳優デビューか、こちらのレーベルからの世界デビューや全米のラジオ局をプロモーションで回りながらのミニライブツアーだったが、そんな動きの最中に思わぬ展開があった。  
 80年代に日本の音楽シーンを席巻したキーボード奏者で、現在はニューヨークを拠点に世界的な活躍をするアーティストで作曲家の影山光太郎にひょんなことからケイスケのデモテープが渡り、ニューヨークでケイスケは影山の家に食事に招待され、気に入ってもらえたのだ。影山とパイプを持っていた日本サイドのレコード会社も動き、影山のプロデュースでケイスケはデビューすることに話がまとまった。今後、ケイスケも影山の意向にあわせて日本とニューヨークを行き来することになり、約一年後のデビューが本決まりになりそうだった。
 そして今日は、ケイスケの待望のライヴである。 
 これまでのニューヨークでの自分の集大成を、短い時間だがライヴという形でみんなに見てもらいたいと言い出したのはケイスケ自身でもあった。
 アッパーウエストの、ケイスケがバイトをしていたラテン・バーの連中が協力してくれて会場を提供してくれてショーケースライヴが企画された。
智子、ケニー、エドウィン、平塚、そして社長の金丸も日本からやって来た。そしてケイスケの友人や仲間たち。そして影山とその関係者たち。たくさんの人間が駆けつけてくれて、小さいけれどスタンディングで50人は入るレストランは満員になった。
 フェンダーのローズピアノ、ストラトキャスターのギターとエレキベースにドラム、パーカッションの構成で、ケイスケはマービン:ゲイの「What’s goin’on」をオープニング曲に選び、自分の書いたオリジナルも含めて6曲を熱唱した。
 ケイスケの成長はめざましかった。ルックスも骨太で自信と野性味があふれていた。曲が終わるたびにみんなは指笛を吹いて喝采を投げた。
 僕は、そんなステージを見ながら、彩乃との出会いを回想していた。
もちろん彩乃は今、隣にいる。
 彼女を抱きしめてキスをしたい、そんな熱い気持を抑えるのに必死で、僕は彼女の手をそっと握りしめた。
  僕は打ち上げパーティで責任を果たすことができほっとした気持とみんなに伝え、お礼を言った。
 金丸たちも大喜びで、この2年間のニューヨークでの僕とケイスケの仕事をねぎらってくれた。
 そんなイベントの後、僕は2週間ほどニューヨークに残り次のステップの準備をした。ケイスケはアパートを引き払い、しばらく日本に帰り曲作りやレコーディングの準備をして、半年後にまたレコーディングにこちらに来ることになった。智子のコーディネーター契約などもとりあえず終了した。
 僕はエクセルシオールに部屋は取ってあったが、彩乃の部屋で過ごすことが多かった。  
 最近ではあちこちバーを探索するのも一段落して、僕たちは彩乃のアパートから歩いても這ってもいける55丁目と9番街にある、観光ガイドブックなどには絶対載っていない名もないアイリッシュパブに通うようになった。アイリッシュパブはいわば日本の立ち飲み屋のようにカジュアルで、入り口には緑色のシャムロックのクローバーのシールが必ず張ってあり、マンハッタンのいたるところにある。その店のバーテンのショーンともすっかり仲良くなった僕は、彩乃と自分の部屋のようにまったりと気楽にカウンターにもたれて飲むようになっていた。
 2000年10月。 
 僕は彼女に会うためだけに、会社に入ってはじめて休暇らしい休暇を取ってサンフランシスコ空港で彩乃と待ち合わせた。空港でレンタカーを借りて、まずは念願のカリフォルニアのナパ・バレーでワイナリーを巡った。地図を片手にロバート・モンダビ、オーパス・ワン、コッポラなど有名なワイナリーや、無名だが家族で切り盛りしているような小さいが素晴らしいオーガニックなワイナリーを気まぐれに回った。
 それから、学生時代のグレイハウンドの旅をなぞるように、レンタカーを借りてロスに向けてハイウェイ1号線を南下して、モントレー、そして昔、学生時代に訪れたカーメルにたどり着き、小さな老夫婦が営む心地よい小さな庭に木のテーブルがある心地よいコテージで何日かを過ごし、ビッグ・サーという美しい砂丘のビーチでサンセットを眺めた。
 ふたりの絆は時を重ねるごとに強くなっていた。
 クリスマスは過ごせなかったが、彼女も仕事が暇になる2001年の2月には日本に戻り、東京で短い時間だったが会うことができた。 ふたりはもうとっくに、現実がどうであれ、いっしょに暮らすことが自然ではないかと思い始めていた。しかし、東京とニューヨーク、それぞれにふたりは別々な生活をしていた。
 そして、たまに彩乃は、これから僕があまりニューヨークに来る機会がなくなるのではないかと不安がった。確かにそうだった。
そしてその不安はやがて悪い予感になり、さまざまな形で現実になっていった。
 2001年3 月。 
 曲作りやレコード会社のデビュー計画はプロモーションのスケジュール、つまり宣伝計画の関係で予定はやや延びてはいたが、すべては順調に進んでいるかのように見えた。
 僕とケイスケは夏前からのニューヨークでの本番レコーディングに向けて、影山サイドとも連絡をとりながら東京で準備を重ねていた。  
 予定ではこの年の夏から約2ヶ月、僕とケイスケはマンハッタンのスタジオにこもって、ニューヨークの実力派ミュージシャンバックにデビューアルバムを制作する予定だった。  
 彩乃ともずっといっしょにいられる。  
 僕はこのプロジェクトが実現するのであれば、僕なりに何らかの決意を彩乃にも示そうと考えていた。彩乃ははじめてのあの夜に結婚しているか?と尋ねたとき以来、私にそのことを一度たりとも尋ねてはいなかった。
 妻の千夏ともその前に離婚についてはっきりと話し合い、結論を出してからニューヨークに向かおうと決心していた。
 しかし、すべてをぶち壊す事件が起こった。
 金丸が2001年の3月の終わり、突然、当局に任意同行を求められたのだ。
贈賄罪だった。  
 もちろん急きょ、僕とケイスケのニューヨーク行きは中止になりプロジェクトのすべては急停止した。金丸がレコード会社の幹部や他の制作プロダクションの社長らと共犯で公共放送局の幹部のプロデューサーに便宜を図っていたというのだ。  
 全国放送のテレビの歌番組のケイスケのレギュラー出演を狙い、多額の遊興費などを現金で公共放送のテレビ局のプロデューサー渡していたというのだ。
何でもありの芸能界では何が起こっても不思議ではなかった。しかしそれが大事に至ったのは、政界も巻き込んだ公共放送局のトップの権力争いの絡む内部告発の泥仕合だったと知ったのは、だいぶ後からのことだった。  
 金丸と僕の会社は一瞬にしてはじけた。  
 僕は共謀の嫌疑をかけられ何度か警察に任意で事情を聴取されが、金丸は実際にそのことを僕には一言も話してはいなかった。  
 金丸の逮捕で会社の業務の存続は困難になった。僕は知り合いの紹介の弁護士を雇い保釈や裁判の準備など、慣れない作業に日々を費やした。金丸はやがて保釈され、結果的には収賄側からの働きかけが強かったということで、3年の執行猶予になるのだが、業界での生命力は残っていなかった。  
「いろいろとありがとう。すまなかったな。もっと何かしてあげたいけど、今は無理そうだ。2、3年女房の実家の鹿児島に帰ってほとぼりをさますよ」   金丸は力なく笑い、会社を一度整理して捻出した多くはない退職金を僕に手渡してくれた。 
 ケイスケは幸いにして、ニューヨークの影山の事務所が預かり、彼のレーベルからのデビューを目指すことになった。  
 この事件はマスコミでも一時大げさに報道された。僕も失業保険をもらい、身を隠すような日々を過ごすようになった。心がすっかり疲弊し、一度長い手紙を書いて状況を説明したが、彩乃ともだんだんと連絡の間隔が遠のいていった。 
 もちろん事件のことや会社がなくなったことを隠したわけではないが、彼女のニューヨークの生活をかき回してまで僕は彼女にすがるように何もかもをありのまま話したいとは思わなかった。彼女が彼女自身で築いてきたあのライフスタイルを汚すような気がしたのだ。  
 突然、僕と満足に連絡が取れなくなってしまった彩乃は、日本にいる僕に何かが起こったこともある程度察したと思う。しかし、もしかしたら、僕が彩乃への愛情を失いかけた出来事もあったのではないかという邪推や誤解もあったのではないかと、今となって思う。  
 彼女は僕が連絡をしない限りめったに連絡をくれなくなっていた。ただ彼女は短く、とにかくニューヨークに帰って来れる日を待っているから、といつも言ってくれた。  
 悶々とした日々が過ぎた。やがて僕はニューヨークの仲間たちともとほとんど音信不通になった。メールがつながる智子にはいろいろと報告し相談したが、智子もやっと授かった子供を身ごもり、これ以上精神的に心配をかけるわけにはいかなくなっていた。
  ★
 2001年9月11日 
 春が過ぎ、暑く苦しい夏が過ぎた。 
 ニューヨーク現地時間2001年9月11日午前8時46分、一機目のアメリカン航空11便が世界貿易センターの北棟に突入。同9時3分に南棟にユナイテッド航空175便の突入。アメリカ同時多発テロ発生。  
 僕はその一報をテレビ局でアルバイトする甥っ子からの携帯メールで知った。この一年で携帯電話は急速に普及していた。  
 日本時間9月11日の夜、中目黒のワインバー「目黒川」で仕事仲間と打ち合わせを兼ねて飲んでいる時だった。
 僕はすぐに店を出て、タクシーで自宅に戻りながら携帯から彩乃に電話をかけた。  
 ニューヨークは混乱していた。  
 もしかしたら日本のテレビ局の報道の方が的確で冷静だったかもしれない。  「何が起こっているの?どうなったの?」  
 彩乃は僕に聞いた。  
 僕はそれがテロらしいことを彼女に伝えた。  
 「今、どこ?」  
 「アパートの部屋」   
 携帯を切らずに家に帰ると、誰もいなかった。   
 僕はテレビをつけた。   
 テレビ朝日の「ニュースステーション」がCNNのライヴ映像を流し始めたところだった。  
「大丈夫か?」  
「ダウンタウンが煙で真っ黒」  
「CNNを見れる?」   
「待ってテレビをつけるから、あっ!ああ!」  
ふたりが同時に東京とマンハッタンで同じCNNの画像を見た数分後、ワールドトレードセンターのツインタワーの南棟が倒壊した。   彩乃は受話器の向こうで声にならない叫びをあげた。  
「どうしたらいいの?」  
「とにかく会社の事務所に行くんだ。そこに行けばみんな集まっているはずだ。一人で行動しちゃだめだ。とにかく仲間がいる場所に行くんだ」  
「わかった、そうする」  
彼女は電話を切った。  
 それからニューヨークへの電話は半月以上もつながらなくなった。
 ニューヨークとの国際電話回線が正常に回復すると僕は電話をして安否を確認し、ファックスで彩乃に長い心配と励ましの手紙を送った。
 そちらの状況は毎日のように報道されるテレビニュースで見ている。とても心配しているので、一度日本に戻ってきたほうがいいのではないか?
 いまは仕事の関係でニューヨークに行く機会はないが、なるべく早く会いに行きたいと思っていること。などを書いた。
 もしも、金丸が逮捕されず、ケイスケのレコーディングプロジェクトが予定通りニューヨークで進行していれば、僕もあの9月、間違いなくマンハッタンに滞在していた。
 しばらくして彩乃から短い返事が来た。
 最近は落ち着いてきて、街にもテロに負けないで頑張ろうという、復興に向けた空気がみなぎりはじめている。日本からの観光客も激減して仕事もなく、自分も日本に帰ることを真剣に考えてはいるが、この素晴らしい街は必ず不死鳥のように甦るはずだと、信じているし、そのために少しでも頑張ろうという気持ちになっている。
 というその手紙の文面は、どこか虚ろで彩乃がもう手の届かない場所から書いているような気がした。

 2001年11月の終わり。
 時計は午後2時をまわっていた。  
 僕は打ち合わせ帰りで地下鉄千代田線の赤坂の駅のホームで電車を待っていた。  
 僕の携帯にその電話は何の前触れもなくかかってきた。  
 その電話は、彩乃からだった。
 酔っているようだった。  
 というか、決して取り乱したことがない彼女が動揺していた。  
 彼女は唐突にしゃべり始めた。
 涙声だった。 
「今、大丈夫ですか?ごめんなさい。亮平さん。
 実は、実は、亮平さん以外に好きな人ができちゃったの。
 ごめんなさい。  テロの後、もう待つことができなくなったの。  
 亮平さんの存在はいままで、私のすべてだった。
 太陽みたいだった。  
 いつも私の心を照らしてくれた。会えなくても寂しくなかった。  
 それは、いつかは会えるし、電話をすれば話せるから。
 確かな約束なんてなくても大丈夫だった。  
 おばあちゃんになってもこの街にいる限り、大丈夫だと思った。  
 でも、あのテロが目の前で起こったの。すごく怖かった。  
 あのビルにいた友達の恋人も、知り合いも行方不明になった。 
  観光客が激減して仕事もなくなって、たくさんの人が仕事を失くしたり、お店を閉めた。
 もしかしたらあの日、あの時間にワールドトレードセンターの近くにいた可能性だってあったの。  
 夜の11時過ぎにチャイナタウンのホリディ・インにお客さんを入れて、帰り道、キャナルからアップタウン行きの地下鉄に乗るのだって怖かったけど、亮平さんの顔を思い出せば怖くなくなったし、心が強くなれた。  
でもだめ、もう。  
 何がだめかって?
このままもう、亮平さんに会えなくなったらどうしよう、っていう恐怖だったの。
 そんなの寂しすぎる。  
 それに、もう1年近く会えていないでしょう?
 テロの後、なんですぐに、できるだけすぐに会いに来てくれなかったの?
 仕事で大変だったのは分かるし、会社も仕事もなくなってしまったんでしょう?
 でも、そんなの、どうってことないじゃないの。
 私だってこんなにつらかったのに。
 いつもいっしょにいて欲しいときに触れることの大切さとか、普通に抱きしめてもらうことのあたたかさ、話したいときに横にいる人、いっしょにベッドで体をくっつけて寝ていられること、今の私にはそんな子供じみたことが大切かもしれない。
 普通に愛して欲しかったの。  
 今まで頑張ってきたけど、ごめん、もう無理みたい。
 もう待てないし、信じられないの。  
 ねえ、他の人、好きになっていい?他の人を好きになっても怒らないで・・・・」  
 千代田線のホームに銀色の電車が入ってきて、話し続ける彩乃の声を掻き消していった。
 2002年。3月の終わりの金曜日。
 地下鉄の赤坂駅で受けたい彩乃からの電話から4ヶ月が経過していた。
 彩乃と初めて会ってから、4回目の春が来ようとしている。
 今年の初め、妻の千夏と別れた。  
 暮れも押し詰まったある日、千夏が珍しく僕を自宅の近くの小さなワインバーに僕を誘った。
 「あなたにこの何年か好きな誰かがいるのは、何となくわかっていた。でも、東京じゃない、多分ニューヨークだと思った。ニューヨークに行く前と帰ってきた後の喜怒哀楽の変化が激しいもの。
 でも、だからどうなの?っていう感じだった。
 私はいつも好きにさせてもらっていたから。そんな生活も良かったけれど、そろそろ子供が欲しいとずっと思っていた。  
 もうダブル・インカム・ノーキッズを気取る歳じゃないでしょ。
 でも、あなたは私のサインに気づいてくれなかった。ここ1年はあなたの会社や仕事がごたごたしてうまくいかないのも知っていたから、なおさら言えなかった。
 世の中は不況になるし。 いつも、不完全燃焼だった。 
 あなたはやさしくて穏やかだけど、全然私に嫉妬もしないし自分の本音も見せない。
 実は私、
子供ができたみたいなの?」
 「誰の?」 
「あなたとはもう何年も何もしていないじゃない。恋人の子供」 
「こ、恋人?」 
「そう、スウェーデンに留学していた時にお世話になっていた家具職人の先生の息子さんが、ある日突然私の会社にメールをして訪ねてきたの。
去年の秋の終わりだった。
ヨハンっていう、23才の男の子。 その子はヨーロッパの若者がみんなするように、カレッジを出てアルバイトでお金を貯めて1年間くらいかけてバックパックで世界を貧乏旅行していたの。  
 私が知っていたのは小学生のヨハンだったからもうびっくりしちゃって。190センチくらいあって長い金髪とあごひげでブルーの瞳。食事に行って下手な英語とスウェーデン語で思い出話に花が咲いた。  
 なつかしくって、ヨハンがいとおしかった。  
 泊まるところは?って聞いたら、京都から着いたばかりで決めていないというから、家に来なさいよ、泊めてあげるって連れてきた。もしあなたが帰ってきてもあなたはそんな珍客を嫌がらないでしょ。  
 家に帰る途中、携帯にあなたからメールが入った。今日は朝までスタジオで帰れないと。 
 いつものことよね。  
 私、彼を誘惑したの。旦那は今日は朝まで帰らないわって 。 
 なんかその日は無性に抱かれたかった、抱きたかった。  
こんなおばさんだけど、どう?って聞いたら、初めて性に目覚めたのは実は、あなたの着替えの下着姿を覗き見して射精した時だ、というからクスクス笑った。  
 笑いながら、キッチンでまず唇にキスされて、服を脱がされて体中にキスされて、びっくりする程固くて大きなものを見せられた。  
 あとは夢中。  
 実は、彼はそれから2ヶ月近く東京にいたの。 
 私がお金を出してウィークリーマンションを近くに借りてあげた。お小遣いもあげた。あなたには嘘をついた。私が会社が急に新潟に新しい店舗をオープンして、その立ち上げの責任者になって仕事が忙しくなって出張が多くなるって言ったでしょ。嘘だったの。本当は同僚がそうだったけど、私は同僚の立場を演じたの。      
 本当は、ウィークリーマンションでいつもヨハンと過ごした。温泉や飲み歩きにも行った。
 私が忘れていたもの、失いかけていた、きらきらしたものを彼はたくさん思い出させて、取り戻してくれた。  
 彼は、やがて私と結婚したいと言った。
 あなたに会わせて話しをさせて欲しいといった。
 14才も離れているからダメだと言ったけど、よくよく考えてみればそれはたいした理由ではなかったわ。  
 とりあえず彼がスウェーデンに帰ってから、彼の子供を身ごもっていることが分かったの。何か、とても感動的だった。うれしかった。もう子供はあきらめていたけど、子供が欲しかったもうひとりの自分がいたのね、心のどこかに。
 人と人が真正面を向きあって愛しあうことって、少しの勇気さえあればなんて簡単なのだろうと思った。英語でメールした。彼はとても喜びんだ。
老いた親にもう心配はかけたくはなかったけど、自分の親にもすべてを話し、許しを乞うた。
 親はまずはあなたに話せって。ノーとは言わなかった。  
 千夏を呼んで暮らしたいと、ヨハン毎日のようには何度も連絡してきた。  もちろん堕ろさないわ。
 来月お医者さんの許可が出れば行くわ、スウェーデンに。それまでは実家で準備するつもり、とりあえず。ヨハンとは結婚するかどうか分からないけど、しばらく一緒に住んで生んでみるわ。
 だから、離婚したいの。  
 何もいらないから、別れましょう。買ったマンションは売ってローンを返せば少しは残るかしら?売ってくれても、あなたがローンを払い続けて住んでもいいわ、あなたに任せる」
 悲しくはなかったし、つらくはなかった。すまないとは思わなかったし、彼女を憎む気持もなかった。
 彼女のそんな彼女らしい行動と申し出に、どこかほっとして彼女にとても優しく冷静でいられる自分を、もうひとりの自分が見ていた。  
 僕は彩乃のことを話すべきだと思った。それがフェアであるからだ。でも、結果的には話さなかった。 話す機会もモチベーションも、もうなかったのだ。
 僕は離婚を承諾し彼女を送り出した。
 日本からの持っていった携帯がニューヨークでも使える、そんな時代になっていた。
 その携帯でまだ覚えている212のエリアナンバーではじまる彩乃の自宅に電話をすると、2コールでなつかしい彼女の声がした。  
 彼女は電話番号を変えてもいなかった。  
 彼女は、少しびっくりした様子だったが、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。 
 「お久しぶりです。お仕事でこちらに来ているんですか?」
と、彼女は元気そうに答え、僕はそうだと嘘を答えた。
 今夜、いまから食事でもどうか、という僕の唐突の申し出に、彼女は今夜なら大丈夫だと言った。
 彼女は僕のホテルを少し事務的に尋ね、それなら1時間後の8時ぴったりにホテルの前にいてくれれば、キャブで拾うと言った。  
 仕事などではなかった。もうビジネスクラスに乗ったり、スイートルームに泊まれる身分ではなくなっていた。
 残っていたコンチネンタル航空のマイレージを使って特典航空券で成田からニュージャージーのニューアーク空港にたどり着き、シャトルバスでホテルにチェックインしたのは今日の午後6時過ぎだった。  
 僕は彩乃と過ごしたこの街に会いに自分の少ないお金をかき集めやりくりして、たった3泊5日の予定でやって来た。
 駒沢のマンションは売却中だが、売れてもローンを清算した金はほとんど残らず、近くにワンルームマンションを借りようと思っている。
 もうリーガロイヤルにもペニンシュラにも泊まれなかったが、インターネットの予約で、なつかしいこのミレニアムホテルに偶然に安い部屋が取れた。  なんとか仕事にもにもありつけそうだった。それまでは食いつなぐためにと何でもフリーの仕事をした。そんな時、昔、世話になったことがある業界の実力者で音楽プロダクションの社長が助け舟を出してくれた。借りを作りたくはなかったが、背に腹は変えられなかった。社長は金丸の会社にいたことで悪い噂が届いていない、新しいレコード会社を紹介してくれ、やっと面接に合格し、給料や労働条件も良いとはいえないが、4月から一年契約のディレクターとして働けるようになった。  
 働き始めたら、当分ニューヨークに来る機会はないだろう。テロの後のニューヨークがどう変わってしまっているのか?智子やエドウィン、平塚や他の仲間たちにも少しの時間でも会うことができたら会おうと思っていたが、金丸との会社のごたごたや転職のことを話さなければならないと思うと気が重く、まだ連絡はしていなかった。
 それよりも、まずは彩乃に会いたかった。  
 金曜日のタイムズ・スクエア。街に繰り出す客で、ロビーもホテルの前の歩道もにぎわっている。  
 44丁目のミレニアムホテルの前の車道に立っていると、1分遅れでバングラディッシュ人らしいドライバーの運転する黄色いタクシーが近づいてきた。
 彼女が窓を開けて「ここです」と手を振った。  
 彼女はまったく変わっていなかった。
 それどころか美しくなっていた。痩せても太ってもいなかったし、髪型も変わっていなかった。僕は急いでタクシーの後部座席に転がり込んだ。  
 あいかわらず、モノトーンのグレーのパンツスーツに白いシンプルなシャツを着ていた。みたことのない金の細いネックレスが綺麗な鎖骨に光っていた。
 「ひさしぶり、ごめんね、急に」
 彼女は首を横に振りながら
「ご無沙汰してます」 と丁寧に挨拶し、話を続けた。
「イーストサイドにいい日本料理店ができたんですよ。そこでもいいですか?そこなら予約は要らないと思うけど、念のため電話してみましょう」  
 と、彼女はまるでガイドの仕事をするように、てきぱきと携帯を取り出しメモを見ながら電話をかけ、日本語で2名がすぐ座れるかを尋ねた。  
 49丁目のセカンドとサードアベニューの間にある「瀬尾」という店だった。店の造作も味も、メニューも品が良くサービスも上質だった。  
 ふたりは小さな坪庭が見渡せるテーブル席に案内されたが、見事なお造りや海老のしんじょうの味、冷酒の味はまるで京都の老舗のカウンター割烹にいるようで、ニューヨークにいることをまったく感じさせない。
 僕たちはテロの事件のことを話した。 いろいろな悲しいニュースや事件後に生まれたいくつものエピソードを聞いた。彩乃はまだグラウンドゼロに行くと激しい頭痛や吐き気に襲われる。だから、ガイドを頼まれてもなるべく行かないようにしているとも言った。
 僕はふたりのことに関して、なかなか切り出せないでいた。
 あの日、東京の地下鉄の駅で受けた別れの電話から、どうなったのか?
 そして、自分自身も妻と別れたこと。
 彩乃はそのような話をしようとするそのたびに、別な話を切り出した。
 智子からも以前簡単なメールをもらっていたが、エドウィンもテロの後エクアドルに一時帰国したが、まだニューヨークには戻っていないようだという。   瀬尾での食事を終え、僕たちは街に出て話しながら49丁目を少し南に下がりながら西に歩き始めた。サックス・フィフスのショーウィンドウの春の広告キャンペーンのディスプレイが鮮やかなピンクとブルーに輝いていた。
少し飲みすぎた冷酒の頬の火照りを心地よい風がなでていく。  
「どう、彼氏とはうまくいってるの?」   
「ふふ。それよりたまには来てくださいね。ニューヨーク。私、今もいいレストランやバーを見つけると亮平さんにまだ今でも教えたくなっちゃうの、癖ですね」 
「じゃあ、メールで知らせてよ」
 「メールはやりかけたけど、やっぱり今は必要ないからやってないんです。会社では最低限受信したメールの返信とかでは使いますけど、私には昔みたいにポケベルが似合ってる。今は携帯になってしまいましたけどね」 
「日本には戻ってこないの?」
 「先月はほとんど名古屋でしたよ。でもこのごろ思うんです。今、日本にどうしても帰る理由もないんで、たぶんこのままかな?ってね」 
「なんか将来も会い続けられるといいね」 
「もちろん。いつでもニューヨークで会えるじゃないですか。 それと、もし、私がおばあちゃんになったら、叔父が住んでる大分の温泉地で一日客一組の宿でもやりたい、なんてこのごろ思うんです。 
 自家栽培の野菜とか、放し飼いの地鶏と卵とか地魚料理とかでもてなして。イタリアンもいいし、和食でもいいですよね。楽しいだろうな。いっしょにやりますか?」 
「本気にしていいのかな?」
 「ほんの思いつきですけど、それまで亮平さん、私のこと覚えていられるかしら」  
 ふたりはいつかペニンシュラでめぐり合えて、たった一枚のピンぼけの写真を撮った大きなクリスマスツリーのあった、ロックフェラーセンターの横を歩いていた。  
「どう?ここまで来たからそこのロイヤルトンのバーで一杯」  
「そうですね・・・。
でも、やっぱりやめておきます、明日は早いし。明後日もフルタイムで仕事。もう今回は会えないかな?お元気で気をつけて帰ってくださいね」  
 一瞬、僕は彼女と触れた手の指をつなごうとした。  
 彼女はそれを、そっと、ゆっくりとほどいた。そう、あの、1万ドルで寝ようと言った大会社の社長の誘いをさりげなく断ったように。  
 金丸が逮捕され、会社が大変なことになって、ニューヨークに来れるような状況ではなかったこと、仕事を無くしやっと就職先を見つけたこと。離婚したこと。今回は実は彩乃に会いにだけ来たこと、そんな大事なことを何ひとつとして僕は話せてはいなかった。  
 ただ、どこかに、いまさらそんなことを話すのは言い訳じみていていさぎよくないかもしれないと言う気持ちがあった。  
 彼女も僕がどんな仕事で来たのか、何をしに来たのか、ケイスケや智子のこともまるで尋ねようとはしなかった。  
「ここでいいですよ。でも今日は会えてよかった。またこちらへ来たら、たまには連絡ください」  
 タイムズ・スクエアに近い、ブロードウェイの角で彩乃は立ち止まり僕を見つめた。
 もしかしたら彩乃に新しい恋人などあの地下鉄赤坂駅の電話の時も今もいなかったのかもしれない。  
 僕は直感的にそう思った。  
 彩乃は僕がいない人生をあのテロの後で選んだ。  
 その彼女の固い胡桃の殻の中にある真意はわからない。  
 しかし、彼女のその選択は揺るがない。決めたことは変えない。本当に必要以外の物や人とはなるべくかかわらない。  
 それが彼女の生き方であり、美学なのではないかと思った。
 「じゃ」
 「もう、今回は会えないかな?絶対?」 
 「亮平さん、もう、私たち恋人同士じゃないから。今はいい友達だから、もうお互いの生活には踏み込めないのよ。あなたのこと、大好きでした」
 「今は?」
 「ずっと私の中でかっこいい亮平さんでいて欲しいの。これ以上、言わせないで」
 彼女はそう言うと小さく会釈をして、いままでで一番素敵な満面の笑顔を僕に投げかけ、そしていつものように凛として背筋を伸ばして僕に背を向けて歩き始めた。
 振り向かなかった。 彼女は本当に僕を愛していた。
 そして今はもう僕を愛してはいない。 彼女が僕を愛してくれたことは、それはとても奇跡的で天文学的確率の出来事だったのかもしれない。
 僕はミュージカルがはねてにぎわう、週末のタイムズ・スクエアの人ごみの中にだんだんと消えていく彩乃の背中を見つめていた。
 なぜ、僕はこんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。 僕は彩乃を絶対に失うべきではなかった、ということに。 彼女ほど僕を理解し愛してくれた人間がいままで他にいただろうか? なぜ、彼女の愛をもっとしっかりと真正面から受け止めなかったのだろうか?
彼女にいったい何をしてあげたのだろうか?
彼女を失いたくないと思った。
絶対に彼女を失いたくはないと思った。  
 それは、自分の人生で最も重く重要ものだと気づいた。  
 東京で決まった仕事、帰りの航空券、そんなものよりあらゆるものよりも、重くかけがえのないものだと思った。
 千夏も最後にひとつだけ教えてくれたではないか?  
 人と人が真正面から愛しあうことは、少しの勇気さえあれば簡単なことだ、と。  
 彩乃が一番大切なものだと感じていた。  
 今しかないと思った。今しか言えないと思った。
 愛していると言おう。もう一度愛してくれと、乞うてみよう。
 「アヤノ!」
 僕は彼女の名前を大声で呼んで彼女を小走りに追い始めた。
 よく日本でも企画される安っぽいドラマや映画で、このタイムズ・スクエアでロケが行われ、こんな男と女のクライマックスの場面の演出を考える監督がいる。
 ああ、恥ずかしい。
よりによってなんでこのタイムズ・スクエアなんだ、と僕は走りながら思った。
 でも、そんな恥ずかしささえも、彩乃の後姿を追って走り出すともう気にはならなかった。  
ミュージカルの余韻に浸る白人の老夫婦、新しいスニーカーを履いた日本人の観光客やセネガル人の物売りや街のぼったくりのカメラ屋のメキシカンのチンピラ店員や仕事帰りの携帯電話中のビジネスマン、警官、中華デリバリーのチャイニーズの少年、バスの運転手、ウッドベースを抱えた初老のジャズマン・・・・。  
 周囲の人々は何が起こったのか、と身構えていっせいに僕に振り向いた。
彼女はまだ気づかない。  
 僕はもう一度大きな声で彩乃を呼んだ。
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「そして、その後ふたりどうなったか、どうしても気になる方へ・・・」
どうしても知りたい方には、この後、そっとお教えすることにしたいと思います。



THE PRESENT TIME ・・・・。
そして、現在。
あのタイムズ・スクエアの少し間抜けなラストシーンからどのくらい時が経っただろう?


僕は、今、眺めのいい部屋にいる。
オークの一枚板のテーブルには4脚の椅子。テーブルの中心には名前を知らない小さな一輪ざしの白い花。
西日が上下に開くハングウィンドウのガラス窓からテーブルに差し込んで、やわらかい初夏の夕暮れの風が吹き込んでいる。
本棚の横に配置されたオールド・タンノイのスピーカーからはインコグニートの「a shade of blue」が静かに流れている。
僕はその4脚の椅子のひとつに座り、今、目の前のノートパソコンに文章を打っている。
その文章とは、そう、この小説である。
この小説も、そろそろ本当のエンディングを迎えるのだ。
恋とは。
恋とは、アクアパッツァのようなものだ。
アクアパッツァとは僕の大好きなイタリア料理であり、イタリア語で「奇妙な水」あるいは「狂った水」という意味である。
カサゴや、メバル、キンキなどの白身魚を丸ごと使うナポリの漁師料理で、アサリやブラックオリーブやトマト、アンチョビなどといっしょに強火でオリーブオイルで炒めている魚に乱暴に水を加え、鍋の中を爆発させるようにして、一瞬炒める。
ただの水はその瞬間、極上のスープに変わり、魚の風味や旨みを引き出す。
魚を炒めるだけではこんな味は出ない。しかし、もしも無味無臭の水を入れるタイミングを一瞬でもためらうと、水は爆発せずにそれはただの間の抜けた煮魚になる。
このアクアパッツァには、一番必要なタイミングで一振りの「奇妙で、狂った水」が必要なのだ。
恋人たちは出会うまではおたがいに透明な水のように、それぞれがそれぞれの毎日を生き、常識的な「スタイル」を持つ存在である。
しかしある日、男と女は運命の必然で出会い、強烈な磁力で引き合い、時には反発し、追い、逃げる。そしてとうとう抱き合った瞬間、ふたりが水をかぶったように強烈な衝撃を受け恋に落ち求め合えば、ふたりは常識的な「スタイル」というフェンスを乗り越えられる。
愛には非常識と狂気というスパイスが必要だからだ。もしも一瞬でも冷静さを取り戻したり時間を置いたりしてタイミングをためらうと、ふたりの愛は美味しいアクアパッツァにはなりえない。
そう、この小説もはじまりは、道端に転がっている石ころのようによくあるマンハッタンを舞台にした、ちょっとおしゃれな恋のドラマのはずだった。
今思うと、僕と彩乃は気まぐれで退屈な縁結びの神様にたまたま目をつけられたのかもしれない。
結局、運命の持つ生命力というか、ふたりを結ぶ運命のへその緒のようなものがどこまで強いものなのかを、神様は面白半分に見物していたのかもしれない。
人間の気持はとても脆く、弱く、思い込みと誤解と曲解で彩られている。
人は大人になっていくほど、いろいろなものがまとわりついてそれを引きずって生きる。
男は何も、やらかさなかった。
結局、自分自身を壊して、アクアパッツァになれなかった。狂うことが必要だったのだ。
やがて男は仕事に失敗し、人生のドブに片足を突っ込み、マンハッタンの55丁目のゴミ箱に置き去りにしていた本当に大切な気持にやっと気付いた。
女は同時多発テロという、街も心も焼き尽くす地獄絵図に遭遇し、巻き込まれ、人生とは一瞬一瞬の時間の貼り合わせであり、その瞬間をボードにピンナップしていくようなもの、ゆく川の流れがいつも同じように見えても、実は同じ水ではないように、それは刹那の連鎖なのだと気付いて、待つことや孤独のはかなさを思い知らされた。
誰かを愛することは大切なことである。
しかし、誰かが自分を愛してくれることはそれ以上に大切なことだ。
そしてその恋人たちはおたがいが本当に心から、永遠を感じられるような、枯れることのない慈愛を感じられるだろうか?
残念ながら、そんな愛にめぐり合える確率は天文学的に低い。
世の中には恋人や夫婦があふれている。愛することに疲れ果てたり、片思いだったり、打算だったり、あきらめだったり、裏切りだったり、幻滅だったり、子供へ愛を転化したり、ほとんどの愛はいびつで、美しいふくらみを失っている。
それでも、汚れてもつぶれても愛は愛。
もしも完全なフォルムの丸みや色を持つハート型の素晴らしい「愛」というものに出会えたと感じたら、それは人生を賭して手に入れ守らなくてはいけないし、人生はその愛によって輝き、宝物で、日常よりも仕事よりも何よりも貴重なものに違いない。
愛に生きるべきだ。
そんな簡単なことに誰も気付いてはいない。
それが、僕の結論だ。
さて、結論が出たところで、この小説をそろそろ終わりにしよう。
その時、部屋の奥の方からばたばたと音がして、スイングドアが開いた。
「ねえ、いつまでそんなところでアブラ売ってるの?早く手伝って!お客さんあと一時間で来ちゃうでしょ」
腰に手を当ててドアの前には黒いエプロン姿の女性が片方の手にはオレンジ色のル・クルーゼの鍋の蓋を持って微笑んでいる。
それは、そう、笑うと少しだけ目じりが下がる、美しいまま変わらない彩乃だ。
ここはマンハッタンからイーストリヴァーを渡ったブルックリン。
マンハッタン橋を渡ってすぐの人気エリア、DUMBOの端っこ。
DUMBOの意味はDown Under the Manhattan Bridge Overpass。
少し前に僕たちは、ハドソン河と橋とマンハッタンの夜景が一望に見渡せる、レンガ造りの小さな建物の6階に一日一組限定完全予約制の小さなイタリアンと和食をフユージョンさせたレストラン「Uno Tavola」(イタリア語で「ひとつのテーブル」)を開いた。
この6階と最上階の7階とは室内でつながったメゾネットで、7階の一部はふたりの住居と僕の音楽スタジオにもなっている。
寒くない季節の晴れた夜には7階から屋上に上がり、オリーブの木やハーブを植えてつくったミニガーデンのあるウッドデッキで、お客さんに食後のデザートとコーヒーや食後酒を絶景のマンハッタンの夜景といっしょに楽しんでもらっている。
もちろん、シェフでマダムは彩乃、僕はアシスタント兼ホール担当、兼皿洗いである。
知り合いやその紹介の気に入ったお客さんしか予約をとらないし、いい材料が仕入れられなければ予約をこちらからキャンセルすることもある。でも、彩乃の天才的な料理の腕は最高で、日本企業の駐在員たちのクチコミで半年先まで週末はほぼ予約でいっぱいだ。
この店の名物料理は、もちろん、フルトンの魚市場やチャイナタウン、時にはモントークあたりで釣れた新鮮な魚を使ったアクアパッツァやカルパッチョだ。
ところで、あのタイムズ・スクエアで彩乃の名前を呼んでから、現在に至るまでのいきさつは?
それは、また次の本で書くことにしよう。


THE END

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