「英語のこころ」が教えてくれた――医療翻訳でニュアンスを間違えると何が起きるか

「英語のこころ」が教えてくれた――医療翻訳でニュアンスを間違えると何が起きるか

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コラム
マーク・ピーターセン著『英語のこころ』という本をご存じでしょうか。

『日本人の英語』で有名な著者が、ネイティブスピーカーとして英語の「感じ方」を丁寧に解き明かした一冊です。
本の内容は、
なぜ漱石の『こころ』は"heart"と訳せないのか。
"I love you."をそのまま「愛している」と訳すことへの違和感はどこから来るのか。
冠詞ひとつで意味がまるで変わること
などを、著者は日本人に向けてやさしく、しかし鋭く説明しています。

この本を読んで、私は医療翻訳者として深くうなずきました。
「これは翻訳の仕事そのものだ」と。


冠詞ひとつが、医療現場では重要である


本書の中で印象的なのが、冠詞「a」と「the」の違いに関するくだりです。日本語には冠詞がないため、多くの日本人がこの違いを感覚的につかみにくい。しかし英語ネイティブにとって、「a patient」と「the patient」はまったく異なる存在を指します。

医療文書でもこれはそのまま当てはまります。

たとえばインフォームドコンセント文書で、"the surgery"と"a surgery"では患者への伝わり方がまったく違います。前者は「この手術(すでに決まっている特定の手術)」、後者は「ある手術(一般的な手術の一例)」というニュアンスです。患者が自分に行われる処置について読む文書で、この使い分けを誤ると、意図しない不安や誤解を与えかねません。

DeepLや生成AIは、冠詞をある程度正確に処理できます。
しかし「なぜそこでtheなのか」「この文脈でaを使うと読者はどう受け取るか」という感覚的な判断まではまだ届いていません。


「こころ」はなぜheartではないのか


著者が本書で問いかけるもう一つのテーマが、「こころ」という言葉の翻訳不可能性です。
"heart"は感情や愛情の座としての心臓を指し、"mind"は思考や意識の領域。
日本語の「こころ」はその両方を包み込んだ概念であり、英語には一対一で対応する単語が存在しません。

これは医療翻訳の世界でも非常に重要な示唆を含んでいます。

たとえば「精神的苦痛」という日本語を英訳するとき、"mental distress"なのか"psychological pain"なのか"emotional suffering"なのか――それぞれが意味するニュアンスは微妙に異なります。患者報告アウトカム(PRO)の翻訳や、抑うつ・不安に関する質問紙の翻訳では、こうした選択が統計的な結果にまで影響することがあります。AIはこの種の選択を文脈から推測しますが、臨床的・文化的背景を踏まえた最終判断は、人間の翻訳者が担うべきです。


「正しい英語」より「伝わる英語」


本書を通じて著者が一貫して伝えているのは、文法的に正しいかどうかよりも、読む人・聞く人にどう届くかが英語の本質だということです。

これは医師の論文作成や国際学会発表のサポートをする中で、私が実際に直面してきた課題でもあります。

日本人医師が書く英文には、文法的に問題がなくても、ネイティブの査読者から「表現が硬すぎる」「ここはもっとカジュアルな動詞でいい」「この単語は科学論文では使わない」と指摘されることが少なくありません。"obtain"と"get"、"utilize"と"use"、"demonstrate"と"show"――どれを選ぶかで論文の読まれ方が変わります。

AIが提案する訳語は多くの場合「正しい」のですが、「そのジャーナルの文体に合っているか」「この学会の聴衆にどう聞こえるか」という判断は、経験と感受性を持つ人間にしかできません。


ニュアンスを感じる力が、翻訳者の価値


『英語のこころ』を読んで改めて感じたのは、翻訳者に必要なのは「知識」だけではなく「感覚」もだということです。

単語の意味を知っているだけなら、今や辞書もAIも教えてくれます。しかし、その単語が「その文脈で」「その読者に」「その目的で」使われたとき、どんな印象を与えるかを感じ取る力は、言語に対する長年の愛着と経験から生まれます。

医療翻訳は、意味を伝えるだけでなく、患者の不安、医師の意図、研究者の仮説といった「文脈のこころ」を正確に伝える仕事です。

私がこの仕事に誇りを持てるのは、単語を置き換えるだけでなく、その言葉の奥にある「こころ」を届けようとしているからだと思っています。


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