異世界の日常
連れて来られたのは小高い丘の上にある小さな村だった。
石造りの家々が立ち並び、煙突からは朝食の煙がゆらゆらと空に昇っている。
俺たちが村の入口に駆け込むと
早朝にもかかわらず何人かの村人が様子を見に集まってきた。
彼女―
―ルチアと名乗った女性は
興奮気味に何かを訴えるように村人たちに話し始めた。
村人の視線が一斉に俺に向けられる。
(しまった、異国の男が突然現れたら怪しまれるに決まっている…!)
俺は両手を開き
「自分は敵ではない」
とアピールするように下手くそな笑顔を浮かべた。
村人たちは警戒しながらもルチアの説明に耳を傾けている。
彼女が俺を指差し
「助けてくれた」
とでもいうようにジェスチャー交じりで話すのが見て取れた。
さっきの野盗風の男たちに襲われていたところを
俺が助けた…そんな風に説明してくれているのだろう。
一人の老人がゆっくりと前に出てきた。
白い髭を蓄えた村長らしき人物だ。
彼は厳しい目つきで上から下まで俺を眺め回すと
低い声でルチアに何か尋ねた。
ルチアは真剣な面持ちでしばらく老人とやり取りを交わした。
やがて老人はふむと頷き
次に俺に話しかけてきた。
「...名前...?」
どうやら拙いながらもこちらの言葉を真似て尋ねているようだ。
「タケシ、俺の名前はタケシだ」
と自分を指差して答える。
老人は「タケシ...」と発音しづらそうに繰り返した。
次に彼は自分の胸に手を当て「マルコ」と名乗り
微笑んで見せた。
ようやく少し緊張が緩み
俺も安堵の笑みを返す。
(どうやら完全に追い返されるわけではなさそうだ。ひとまず受け入れてもら
えたのか?)
村人たちも次第にざわざわと警戒を解いていくのが分かった。
中には珍しそうに俺の黒髪や服装をじろじろと見る若者や子供もいる
無理もない
彼らにとって東洋人など見たこともないだろう。
(俺だって彼らの格好には驚いている。まるで中世ヨーロッパの農民みたい
だ...って、もしかして本当に中世ヨーロッパなのか?)
ルチアが安心したように微笑み
俺に「こっちへ」と手招きした。彼女について村の中へ入る。
石畳の道、軒先には干し草や干しレンガが積まれ
牛や羊の鳴き声がのどかに聞こえてくる。
鼻をくすぐるのは初めて嗅ぐ香辛料と焼き立てのパンの香り。
(見たことのない景色、香り、音...どうやら本当に異世界か過去の時代に来て
しまったみたいだ。信じ難いが、この肌寒い空気も匂いも、夢や映画ではない
現実の感触だ。)
ルチアはある一軒の家の前で立ち止まった。
木製の扉を押し開けると
中から年配の女性が顔を出す。
ルチアはその女性に何やら事情を説明し
次いで俺を紹介した。
女性は驚いた様子で俺をまじまじと見つめたあと
にこやかな笑みを浮かべて何度も頷いた。
どうやら歓迎してくれるようだ。
後で知ったのだが
この女性はルチアの育ての親であるカテリーナお婆さんだった。
カテリーナお婆さんに促され
俺は家の中へと招き入れられた。
室内は天井が低く薄暗い。
暖炉には火がくべられ
鉄の鍋でスープのようなものが煮込まれている。
こげ茶色のスープからはハーブの香りが立ち上り
思わず腹が鳴った。
そういえば昨日の夜から何も食べていない。
(昨日?いや、いつが昨日で今日は何日だ?そもそもここは何年なんだ?)
頭の中には疑問が渦巻いていたが
とにかく腹が減っているのは確かだった。
ルチアがお椀によそったスープと硬そうなパンを差し出してくれた。
「ありがとう」
と思わず日本語で礼を言ってしまったが
気持ちは伝わったのか彼女はにっこりと微笑んだ。
俺もつられて笑みがこぼれる。
(笑顔は言葉の壁を越えるって本当だな)
スープを一口すする。
優しい野菜の甘みとハーブの風味が染みわたり
冷えた体に活力が戻っていくようだ。
パンは岩のように固かったが
スープに浸して何とかかみしめる。
(なんだこのパン!レンガみたいだ。でも飢えには勝てない…)
初めて口にする異国の食事に戸惑いつつも、空腹には勝てず夢中で平らげた。
食事が落ち着くと
カテリーナお婆さんとルチアが顔を見合わせ何やら相談し始めた。
俺は暖炉の火で冷えた手を温めながら
家の中を見回す。
壁には木彫りの十字架と
聖母子の小さな絵が掛けられていた。
(キリスト教の家か…やっぱりここはヨーロッパっぽいな。もしかしてルチア
ってイタリア人?イタリア語っぽい単語をさっき話していたし)
部屋の隅には糸車や古びた蔵書が積まれている。
テーブルや椅子は手作り風でがっしりとしており
タイムスリップものの映画で見た中世の生活そのものだ。
ルチアが俺に毛布の束を手渡してきた。
どうやらこれで休めということらしい。
カテリーナお婆さんはにこにこと優しい笑みを浮かべ
俺の肩をぽんぽんと叩いた。
長旅で疲れているだろうから休むといい…
そんな風に言っているのだろう。
(本当に親切な人たちだな。見ず知らずの怪しい異国人なのに受け入れてくれ
て)
俺は感謝の気持ちを込めて何度もお辞儀をした。
日本流の深いお辞儀に
ルチアもお婆さんも一瞬きょとんとしたが
すぐにクスクスと微笑み返してくれた。
どうやら礼の伝え方にも文化の違いがあるようだ。
裏手の小さな納屋のような場所に寝床を用意してくれたらしい。
干し草のベッドに毛布を敷いて横になると
どっと疲れが押し寄せてきた。
窓の隙間から差し込む朝の光がぼんやりと部屋を照らしている。
(本当にとんでもないことになった…俺はどうしてこんな時代に来てしまった
んだ?元の時代に戻れるのか?それに…ルチア、彼女は一体何者なんだろう)
不安と疑問が頭をもたげるが
疲れ切った身体は容赦なく意識を手放そうとする。
遠くでルチアがお婆さんと話す声が子守歌のように聞こえた。
言葉は分からなくとも、不思議と心地よい響きに感じる。
(彼女の声…きれいだな。もっと話しているのを聞いていたい)
そう思いながら瞼が重くなり、俺は深い眠りに落ちていった。
目が覚めると、窓の外はすでに夕暮れ時だった。
橙色の光が部屋いっぱいに差し込み
しばらく自分がどこにいるのか忘れてしまうほど幻想的な光景だった。
(そうだ、俺は未来から来たんだっけ…夢じゃないんだよな)
体を起こすと、戸口に人の気配を感じた。
ルチアが心配そうにこちらを窺っている。
「ルチア…」名前を呼ぶと
彼女はぱあっと顔を輝かせ
小走りで俺の元へやって来た。
何か言葉をかけてくれるがやはり理解はできない。
ただ、その声のトーンから俺を気遣ってくれているのが伝わった。
「大丈夫、よく眠れたよ」
と日本語で答えてしまう自分がもどかしい。
(言葉が通じればどんなにいいか…)
そう考えた時
ルチアがゆっくりとはっきりとした口調で
「ダイジョウブ?」とたどたどしく尋ねてくれた。
驚いて彼女を見ると
少し誇らしげに微笑んでいる。
どうやら
俺が度々口にしていた
「大丈夫」という日本語を覚えてくれたらしい。
「大丈夫、大丈夫だよ」
と俺は笑顔で頷く。
通じた!
ほんの一言だが互いの言葉が通じた瞬間
胸が熱くなるのを感じた。
ルチアも安心したように微笑み返し
そっと俺の手を取った。
彼女の暖かな手の感触にドキリとする。
(なんて柔らかいんだ…彼女の手、すごく小さい)
しかしその小さな手には畑仕事でできた豆や薄い傷跡があり
決して飾り物のお嬢様ではなく力強く生きている証が刻まれていた。
手を引かれ外に出ると
夕焼け空の下
村人たちが広場に集まっているのが見えた。
子供たちがはしゃぎ
大人たちは仕事を終えて寛いでいる様子だ。
俺の姿を見つけると
何人かが手を振って声をかけてくれた。
「タケシ!」
発音は様々だがおそらく名前を呼んでくれているのだろう。
俺は照れくさくなりながらも手を振り返した。
言葉は通じなくとも
笑顔や仕草で少しずつ受け入れてもらえているのを実感し
胸に暖かいものが広がった。
(異文化との衝突って言うけど、こうしてみんなが優しく接してくれると救
われるな…)
ふと道端を見ると
鶏が放し飼いにされている。
その向こうで猫が気だるそうに伸びをしていた。
服装こそ違えど
人々の営みは俺が知る田舎の風景とさほど変わらない気がしてくる。
夕飯時なのか、どの家からもいい匂いが漂い、腹がまた鳴ってしまった。
ルチアがそれに気づき、可愛らしくクスッと笑う。
顔が熱くなるが、彼女が笑うとつられてこちらも笑顔になった。
(言葉が違っても、こんな風に心が通じる瞬間があるんだな)
その夜
村では小さな宴が開かれた。
聞けば春の種まきを終えた祝いとのことだったが
きっと異国から来た俺を歓迎する意味もあったのだろう。
広場では簡素な楽器の音色に合わせ
村人たちが陽気に踊り始めた。
ルチアも恥ずかしそうに俺の袖を引き
「一緒に」と手招きする。
踊りなんてできないと遠慮する俺の手を強引に引っ張り
輪の中へと誘った。
見よう見まねでステップを踏むと
周りの人々が手を叩いて笑い声を上げる。
ルチアも嬉しそうにくるくるとスカートを翻し舞っている。
夕闇の中
焚き火の赤い光に照らされた彼女の姿は幻想的だった。
頬を紅潮させ楽しそうに笑うルチア。
(なんて楽しげなんだ…こんな表情をするんだな)
出会った朝の不安そうな顔とはまるで別人だ。
その笑顔を見ていると胸の奥がじんと熱くなる。
俺も心から笑みがこぼれ、調子に乗って少しコミカルに踊ってみせると
彼女は声を上げて笑った。
言葉は通じなくとも、二人の距離がぐっと縮まった気がした。
踊り疲れて息を切らし
ルチアと二人、
村外れの木陰に腰を下ろした。
夜空には無数の星が瞬いている。
こんなにも星空が美しかっただろうか。
現代の街ではネオンにかき消されて見えない星たちが
今日は手が届きそうなほど近くに感じる。
「キレイ…」思わず日本語で呟くと
ルチアは「キレイ?」と首を傾げた。
俺は星空を指差し
大きくうなずいて「きれいだ」と伝える。
すると彼女も空を仰ぎ
うっとりとした表情で頷いた。
どうやら言葉は分からずとも、感動は共有できたようだ。
(こんなにも穏やかで幸せな時間が流れるなんて、日本にいた頃は想像もで
きなかったな)
隣に座るルチアの横顔をそっと盗み見る。
焚き火の名残の明かりに照らされ
彼女の長い睫毛とすっと通った鼻筋が浮かび上がる。
心臓がまた高鳴った。
(俺はこの世界に迷い込んでまだ数日なのに…どうしてこんなにも彼女に惹か
れているんだろう?)
運命的な出会い
と一言で片付けてしまうには
この胸の熱さは強烈すぎる。
一目惚れなんて信じていなかったはずなのに。
ふとルチアがこちらを見つめ返していることに気づき
ドキリとする。
「タケシ…」と彼女は俺の名を呼んだ。
その声音はどこか切なげで、胸に深く響いた。
言葉が通じぬもどかしさを
彼女も感じているのだろうか。
俺はゆっくりと「ルチア…」と名前を呼び返す。
たったそれだけの会話。
それでも彼女は嬉しそうに目を細めた。
気づけば俺たちは見つめ合ったまま、静かに微笑み合っていた。
(この瞳に映る景色を、俺は守りたい。この笑顔を絶対に守ってみせる)
心の中でそう誓った。
その時、遠く教会の鐘が静寂を破るように鳴り響いた。
夜の訪れを告げる厳かな音だ。
ルチアがはっと我に返り、少し慌てた様子で立ち上がった。
どうやら夜更けになったので解散する時間らしい。
名残惜しさを感じつつも、俺たちは再び手を繋いで村へと戻った。
言葉はなくとも
握った手から伝わる温もりが互いの心を確かに繋ぎとめていた。
第4話へ続く…