ある年、会社の昇給を「全員一律」にしたことがあります。
評価で差をつけても、上と下の差は月に数千円です。どうせ大きく変わらないのなら、一律にしてしまったほうが揉めない。そういう判断でした。
その年、何人かが辞めていきました。辞めたのは、頑張っていた人たちでした。
「頑張っていない人と同じ扱いなのか」。数千円の差は、会社から見れば小さな差です。でも本人たちにとっては、自分の働きが見られていたかどうかの証拠でした。それが消えた年に、いちばん辞めてほしくない人から辞めていったのです。
私は人事・総務として21年、スタートアップと中小企業あわせて4社で働いてきました。採用も、評価も、退職の手続きも担当してきた立場から、中小企業の離職防止で本当に効いていたことをお伝えします。
この記事では、人材会社の記事によくある「施策10選」のような一覧は出しません。代わりに、人事の現場で実際に起きていたことと、そこから分かった「辞めると言われる前にできること」を書きます。
社員が辞めて、会社が止まる時代
社員の退職がきっかけで会社が立ち行かなくなる、いわゆる「退職倒産」が増えています。東京商工リサーチの調査(2026年10月発表)では、2026年度上半期(4〜9月)に、従業員の退職が原因となった人手不足倒産は67件で、過去最多でした。
大きな会社なら、1人辞めても誰かが穴を埋められます。でも社員10人の会社では、ベテラン1人の退職が、そのまま事業の柱が抜けることを意味します。
一方で、同じ期間に、人件費の高騰が原因の倒産も130件(前年同期は74件)と過去最多でした。賃上げしなければ人が辞め、賃上げすれば資金が持たない。中小企業の経営者の方からすると、どちらを向いても苦しい状況だと思います。
だからこそ、お金をかける前にできることを先に押さえておきたいのです。
退職理由の本音は、まず出てこない
辞める方には、退職の面談で理由を聞いていました。ただ、本音はなかなか出てきません。
考えてみれば当然です。辞める前に本音を言って得をする人はいません。言ったところで何かが変わるわけでもなく、面倒に巻き込まれるだけです。よほど強い恨みでもなければ、皆さん大人の対応をして去っていきます。
それに、退職を切り出す時点で、たいてい転職先はもう決まっています。気持ちはもう次の職場に向いているのです。
「人間関係が理由です」とはっきり言う方は、ほとんどいませんでした。言うとしても「自分はもう、ここではダメだと思ったので」という言い方です。
最近のニュースのコメント欄でも、「会社に本音を言っても変わらない」「言えば損をする」という声がたくさん並んでいました。辞める側から見れば、これが実感なのだと思います。
試用期間中に「辞めます」と言われたこともあります。そのとき私が思ったのは、単純に、この会社に魅力がなかったんだなということでした。
つまり、辞めた人から本当の理由を聞き出して対策を立てる、という順番は、ほぼ成り立ちません。離職防止は、辞めると言われる前に何をしていたかで決まります。
辞める人は、切り出す前から雰囲気が出ている
「辞めたいんですが」と言われたとき、私が感じたのはたいてい「いよいよ来たか」でした。
驚くことはほとんどありません。そういう雰囲気をまとっているな、と前から感じていたからです。会話が減る、会議で発言しなくなる、先の予定の話を避ける。周りから見ていると、何となく分かるものです。
ここで大事なのは、雰囲気が出始めた時点では、まだ本人の中で決まりきっていないことがあるという点です。転職先が決まって退職を切り出す段階になると、もう打てる手はほとんどありません。勝負は、その手前です。
引き止めは、痛みを後ろに延ばすだけ
私は基本的に、辞めると言ってきた人を引き止めませんでした。
ほかの部署で、引き止められて残った方を見たことがあります。その方はそのあと3年ほど働き、その間に3回、辞めたいと言っては引き止められていました。
その3年間で、本人にとっても会社にとっても、何かいいことがあったかというと、何もありませんでした。引き止めは、退職の痛みを後ろに延ばしただけだったのです。
本人が「辞める」と口にし始めたら、気持ちよく送り出したほうがいい。そのぶん、残っている人たちのために時間を使ったほうがいい。これが私の結論です。
離職防止というと、「辞めたいと言った人をどう引き止めるか」を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。でも実際に効くのは、言われる前の日々の中にあります。
賃上げだけでは止まらない ―― 一律昇給の年に起きたこと
冒頭の話に戻ります。
中小企業の昇給は、名目上は社長が決めます。実際には人事・総務の責任者が案を作って、社長と調整していました。評価で差をつけても、上位と下位で月に数千円しか変わらない。「どんぐりの背比べ」です。
だから一律にしても大差ないだろう、と考えたのです。でも結果は、冒頭でお伝えしたとおりでした。
この経験から分かったのは、社員が見ているのは金額の大きさではなく、自分の働きが見られているかどうかだということです。
数千円の差でも、「あなたの頑張りは見ていましたよ」というメッセージになっていました。一律にした年、そのメッセージが消えました。会社にそのつもりはなくても、頑張っていた人には「見ていない」と伝わったのです。
賃上げそのものが悪いわけではありません。ただ、同じ額を配るなら、誰の何を見て決めたのかが伝わる配り方のほうが、人を引き留める力は強いと感じています。
定着に効いているのは「見てもらえている感覚」
では、何が人を職場に引き留めるのか。私は「見てもらえている」という感覚だと考えています。
よく「役割を持たせると、人は辞めにくくなる」と言われます。ただ、役割があるから残るのか、残るつもりの人に役割が任されているのか、そこははっきりしません。
それでも私は、役割そのものより、役割を任されることで生まれる「自分は期待されている」という実感が効いているのだと見ています。
評価への不満も、制度の中身より「自分の働きが会社からどう見えているか」が伝わっていないことから生まれている場合が多いと感じます。特に若い方ほど、自分の貢献を高めに見積もりがちです。会社の見方とのずれは、制度を作り替えても埋まりません。
制度を変える前に、伝える機会を作る。中小企業の離職防止は、ここから始めるのがいちばん確実です。
中小企業で今日からできる離職防止の取り組み
大きな予算も、新しい制度もいりません。私が現場でやっていた、あるいは効いていると感じたことを4つ挙げます。
・肩書きのない役割を、理由をつけて渡す
新人の指導役、改善活動の担当、小さなチームのまとめ役。ポストを増やせない会社でも、役割なら今日から渡せます。
大事なのは、渡すときに「なぜあなたに頼むのか」を言葉にすることです。理由を言わずに役割だけ置いていくと、本人には「仕事が増えただけ」と受け取られ、かえって逆効果になります。
・その人の働きが、会社からどう見えているかを伝える
評価の時期だけでなく、普段の会話の中で「あの件、助かった」「ここは前より良くなった」と伝える。上司は「話せている」と思っていても、部下はそう感じていないことがよくあります。言葉にしなければ、見ていることは伝わりません。
・入社して最初の1〜3か月は、重点的に面倒を見る
中途入社の方を受け入れるとき、配属先の上司には「最初の1〜3か月は重点的に面倒を見てください」とお願いしていました。経験がある方でも、会社のやり方は違います。この時期に放っておかれると、「この会社は自分を見ていない」という印象が早いうちに固まってしまいます。早期離職を防ぐうえで、いちばん手をかけるべき時期です。
・異動は、内示の前に打診する
最近の職場では、内示の前に本人へ「今度こういう部署を考えているんだけど、どう?」と匂わせて、希望を聞くのが当たり前になってきました。行けそうならそのまま進め、難しければ話を流す。20年前には考えられなかったやり方ですが、今は無理に異動させると、そのまま辞めてしまうからです。
上司と合わないことが本当の理由で異動させる場合も、それは表に出しません。あくまで前向きな異動の形にします。本人の立場を守ることが、結果として離職を防ぐことにつながります。
社内アンケートでは「辞めたい」は正直に出ない
社員の本音を知ろうとして、アンケートを取る会社もあると思います。それ自体は良いことです。ただ、読み方には注意が必要です。
「転職を考えていますか」という質問に、正直に丸をつける人は多くありません。無記名でも、部署や年代を書けば誰か分かるのではないか、と考えるのが自然だからです。
ですから、「転職を考えている」と答えた人の割合は、実際より少なく出ていると見ておいたほうが安全です。「うちは辞めたい人が少ない」と安心する材料にはなりません。
満足度などの数字と「働き続けたいか」の数字が結びつかなかったとしても、「満足度を上げても意味がない」と結論づけるのは早すぎます。働き続けたいかの回答のほうが、正直に出ていない可能性があるからです。
アンケートは、それだけで判断せず、日々の会話や、辞めた方への聞き取りと組み合わせて読むことをおすすめします。
辞められても止まらない会社にしておく
どれだけ手を打っても、人はいつか辞めます。定年もあれば、家族の事情もあります。退職は、いつか来るものが早まっただけと考えたほうが、気持ちの準備ができます。
だからこそ、辞めないようにする努力と同じくらい、辞められても事業が止まらない準備が要ります。
難しいことをする必要はありません。まずは、「この人がいないと分からない仕事」を書き出してみてください。取引先との細かな約束、機械のくせ、毎月の締めの手順。本人にとっては当たり前すぎて、誰にも伝えていないことが、いちばん危ない部分です。
書き出した仕事を、少しずつ2人目にも覚えてもらう。これも、先ほどの「肩書きのない役割を渡す」の一つになります。教える側は頼られていると感じ、覚える側は任されていると感じます。離職防止と、辞められたときの備えが、同じ取り組みでつながるのです。
自分では判断がつかないときは
ここまでお読みいただいて、「うちの場合はどこから手をつければいいのか」と迷われた方もいらっしゃると思います。
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