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なぜコンテンツ制作を仕事にしようと思ったのか

「なぜコンテンツ制作を仕事にしようと思ったのか」この問いに対する答えは、「もともと調べること、書くことが好きだったから」です。私は、小学生の頃から知的好奇心旺盛な子供でした。両親から買ってもらった雑誌や、自宅の新聞を切り抜き、自発的にレポートらしきものを制作していました。最も記憶に残る原体験は、小学6年生の春先に製作した自学ノートです。そのノートは主に修学旅行先である瀬戸内海の地理や歴史をまとめた内容でした。大人になってノートを読み返すと、内容的には大人が作成したそれと引けを取らない完成度だったと記憶しています。多少は脚色が入っているのかもしれません。それでも、この時に製作したノートが、執筆家としてキャリアを歩むうえで大きなターニングポイントになったと認識しています。同時に、そのノートは、「あの時の自分にもできたのだから、今の自分にもできる」といった自信にもつながっています。
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小学校6年生の組体操

これも小学校時代の原体験であり、卒業文集にも書かれていたので印象深い出来事だったものです。当時の小学校では、最終学年6年生の運動会では、組体操を行う伝統がありました。2人一組で行うもの、3人・5人一組で行うものなどいくつか種目がありましたが、その時はクラス全員で行うピラミッドタワーという種目がありました。これは、一番下に4名、その上に3名・2名、頂上に1名が四つん這いの状態で乗り重なっていき、ピラミッドのような形を作るものです。10名で一つのピラミッドで、全3体を同時に作り上げるというものだったと思います。当然下の人が耐えられなくなって崩れたり、3体のうち1体が崩れたらクラスの作品になりません。男女関係なく参加をしており、練習も簡単ではありませんでした。その時の私は、文集にあるように、傍から見ると真面目に練習をしていない姿勢でおり、和を乱していました。やる気がないならやめろと言われ、一念発起したのか、その後は真面目に取り組み、本番では成功を収めました。(私の位置は一番下で支える役割でした)みんなで協力して一つの目標を成し遂げる喜びを体験したと同時に、協力しない態度、姿勢がいかに和を乱し、人に迷惑をかける愚かな行為かも、その時学んだように思います。今私の、協力して何かを成し遂げることに強い意識を持っていること、和を大事にすることに繋がる原体験であったと思います。
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林間学校での出来事(トラウマを抱えないために)

小学校5年時に、2泊3日で集団合宿を行う林間学校というイベントがありました。当時クラスがバラバラで、このままだと林間学校に行かせないと言われていた中、何とかクラスをまとめ、林間学校に行けました。そこでの出来事は、私の今の人格形成の一つとなる原体験であり、一方でトラウマにならないためにどのようにするかの二つを経験できたと思います。合宿の一番の楽しみと言えば、みんなで夜遅くまで集まって話したり、ゲームをしたりすることでしたが、ある日の夜、一人の友達が我を忘れたように怯え、震え、ずっと呟いているような状態になっていました。何事かと、みんなでその子に集まりましたが、その子はお化けを見たと言って、それだけを言葉に発し、とにかく怖がっており、怯えていました。その子が言うところにお化けの姿はなかったのですが、そうは言っても本人が見たと言っています。みんなで、大丈夫大丈夫と声をかけたり、もういないよと声をかけたり、その部屋中のみんなでその子に付いてあげていました。その時確か全クラスで集まる催し物があったのですが、それどころではありません。そこに集まることをせず、とにかくその友達が落ち着くまで付いていました。知らない人からすれば、なんで自分のクラスだけ集まってこないんだということになり、部屋の外から「何やってんだ」「そんなことより早くしろ」というような声が聞こえてきたのを覚えています。先生に事情を話し、私を含めた数名だけ怖がってるその子に付いて、他の子たちは集まりに参加していきました。その時の私の気持ちとしては、怯えている子に対して何でそんなことが言えるんだということと、やっぱり何があっても怖が
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小学校の文集より

私には人のためにの精神のほかに、人が協力し、助け合って何かを達成するということに強い思い入れがあります。過去にイベント制作の会社にいたことも、イベントという一人一人の力が合わさって成果を出すということに魅力を感じていた。また、歌などのLIVEでの一体感もとても心を揺さぶられるものがあります。そのルーツの一つと思われる小学校時代の原体験がありました。文集に載せたくらいだったので、とても印象にあったのでしょう。当時5年生のクラスは、とにかく一体感がなく、特に男女の仲が悪かった。そのせいで、担任の先生(女性の先生)にも手を焼かせ、いつも怒られていた気がします。そんな中、どういう経緯か、何とかみんなで仲良くしようと、あの手この手を考えていた記憶があります。クラス全員を巻き込んだ遊びをしたり、みんなで歌ったりして。そうする理由の一つとして、文集に書いてあった当時の林間学校に行く行かないの話がありました。その時のままバラバラだったら林間学校に行けないと言われ、何とかまとめようとしたようです。結果、楽しい林間学校となり、さらにそこでも仲間を助ける出来事があり、結束が深まったと記憶しています。一人一人がまとまることの素晴らしさ。仲間を大切にする思いやり。そのことを体験した小学校時代の原体験が今に活かされているのではと思います。
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小学校の原体験

私は小さい頃から困っている人を放っておけなかったり、面倒見がよいと言われたりします。そんな人間性になった要因の一つとして、小学校時代の原体験が思い出されます。今はどのようなシステムかわかりませんが、私が小学校の頃の35年ほど前は、2年毎にクラス替えが行われていました。6年間で3回ですね。当時同じ学年は3クラスでしたが、それでも6年間ずっと一緒だった子は女子の2名だけでした。そのうちの1人の子がダウン症を患っていました。ダウン症は、先天性の疾患であり、新生児の1,000人に1人が罹ると言われています。私の口唇口蓋裂の倍の確率ですね。その子も満足に歩けず、字も、絵も描けず、そのような状態でしたが、6年間他の子たちと一緒に学校に来て、授業を受けていました。体育も一生懸命参加していました。その時思い出されるのは、6年間ずっとだったか記憶は曖昧ですが、同じクラスのメンバーが交替でその子の家まで迎えに行き、一緒に登校したことです。今考えると、そう学校から遠い家ではなかったですが、始業までに家に行くと母親と待っていて、一緒に手を取って登校したのです。日によって感情の浮き沈みがあり、連れていくのに苦労したこともありましたが、みんな当たり前のように迎えに行っていたと思います。授業も、遊びも、その子を特別扱いするわけでもなく、ましてやいじめをすることもなく、6年間を過ごしました。その6年間が少なからず、私の人格形成に影響しているのではと感じました。もちろん、私一人で接していたわけではないですが、近くで見ていたことに変わりはありません。またこちらがすることだけではなく、その子本人もとても一生懸命に生
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幼稚園の原体験

原体験とは今の自分の考え方、行動を形成していく上で関係している幼少期の体験になりますが、自分の原体験を探る上で、幼稚園の文集を見てみました。今の私の考え方の中で、笑顔でいれば何とかなる、行動として、いたずら好きな面がありますが(堅くならずに楽しくやろうぜ、としていると捉えてください。嫌がらせをしているわけではありません)、この文集を読んでなるほどなと思いました。幼稚園児の文章なので、理由も何もありませんが笑、友達と笑い合ったり、いたずらっぽいことをしていたんだなということはわかりました。これが今に繋がっているのかと。少なくとも、出生時のハンデや周りの子の接し方は何もおかしなところがなく、楽しくやっていたのだなと感じました。原体験は、記憶の中を辿るのももちろん効果はありますが、このように過去の文集や作品、日記などがあれば新しい発見に繋がることがあります。小さい頃の話、どんな子だったか、どんな行動をしていたかなどを、家族や親戚に聞いたり、友達に聞いたりするのも良いかもしれません。私の持つ「原体験ファシリテーター」という資格も、質問などからその人のルーツを探るお手伝いをするものとなります。自分で思い出してみるも良いですが、人とのやりとりで引き出されることもあります。自分自身の原体験、時々思い出してみてはいかがでしょうか。
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原体験とは

原体験とは、その人の人格形成や、行動の方向づけに、知らず知らず影響を及ぼしている、幼少期の体験を言います。幼少期の定義は人によって違いますが、遡れれば遡るほど関係が深いと言われます。原体験は記憶にあるものもあれば、記憶にはないが体が覚えていて、何となく反応してしまうものもあると言います。私の幼少期の障害者としての出生や、病院通いも原体験の一つでしょう。病院は苦手な人も多いです。それは医療トラウマとも呼ばれていて、小さい頃に嫌々病院に連れてこられたり、痛い注射を無理矢理打たれたり、何より病室は特殊な空間なので親が一時的にでも離れてしまい寂しい思いをしたり、記憶にはなくてもこういった体験を身体が覚えているのかもしれません。病院の雰囲気が苦手、匂いが苦手、注射が嫌いな人も多いですよね。私は慣れてしまって知らずに克服していたのかもしれません。また赤ちゃんは当初、痛みを感じないとされていたようで、赤ちゃんの病院の記憶は人格形成に影響がないとされていました。しかし全く逆で、赤ちゃんほど感受性の高い時期はなく、全身で環境を受けて止めてしまうようです。このように、自分や周りが思っている以上に幼少期の体験は影響があるのです。医療トラウマに限らず、トラウマを抱えている方は多いと思います。それは無意識のもの、意識として記憶としてあるもの、自分自身に起こったもの、目の前で起こったもの、テレビで見たもの、要因は色々あるようです。ですので、まずはそんな自分をおかしいだとか、人と違うとか、治さなきゃなどと思わないでください。誰でも人には言えない過去や経験はありますし、その内容に強弱も良い悪いも、人によって受
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口唇口蓋裂の生活

前回は口唇口蓋裂という障害を持って生まれたという話を書きましたが、具体的にその後どのような生活を送っていたのかを思い出してみます。唇が裂けた状態で生まれてきたので、産後すぐに唇を縫う手術を行いました。もちろん記憶にはないですが、数時間を要する手術だったと後ほど聞きました。裂けている範囲は、歯茎から唇にかけてなので、歯並びもガタガタでした。そのため、すぐに歯の矯正をしました。見た目の傷のことより、この歯の矯正の方が苦労したように思います。月に1度ほど、専門の病院に通院するのですが、器具を入れ替えた直後は矯正なので痛かったですし、歯の上に器具が付いているので、最初の頃はそれが見られるのを気にしましたね。歯並びは矯正していくときれいになるのですが、きれいになったところで、口唇口蓋裂の影響か受け口(嚙み合わせると下の歯が前に出る状態)になり、最終的には成長が止まるのを待って、受け口を直す手術をして歯の矯正は器具をすることがなくなり、終了しました。(成長中に手術をするとまた成長に伴って形が変わるため)これがちょうど高校卒業後の春休みでした。したがって、生まれてから20歳近くまで、歯科矯正や整形外科の病院にずっと通っていたように思います。病院が嫌い、苦手という人もいますが、そんな幼少期を過ごしてきたこともあり、自分にとって病院は馴染みのある場所でした。今はお陰様でほとんど行くことはなくなりましたが。また、病院内は色々な患者さんの姿が見えるので、(点滴を持ったままの患者さん、包帯を巻いた患者さんなど)、子供の時にそういう光景をよく目にしていたことも、今に繋がる原体験なのかもしれません。直接な
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口唇口蓋裂

カバー写真で不快に思った方すみません。これは、口唇口蓋裂といって、赤ちゃんがこのように障害を持ったまま生まれる病気のことを言います。日本では出生児の500人に1人程度が発症すると言われており、生まれた直後すぐに裂けた唇を縫う手術を行います。ですので、大人になるまで鼻の下に手術の痕と、歯茎も裂けているので歯科矯正も行うことになります。私はこの口唇口蓋裂を発症して生まれました。何度かその時の写真を見たことはありますが、まさにこのカバー写真通りだったと思います。大人になった今では手術痕はきれいになりましたが、やはり20歳くらいまでは見ればわかるくらいだったと思いますし、歯科矯正も20歳すぎまで行っていました。今考えると、いかにもいじめに遭いそうな見た目をしていたように思いますが、そのような記憶はありません。(小学校低学年時に1度だけ上級生に見た目を言われた記憶があるくらい)本当に普通の人と同じように成長し、過ごしてきたと思います。ただいつだったか、大人になった時、一度母から生まれた当時の話を聞いたことがありました。このような形で生まれた赤ん坊に対し、正常じゃないことで周りの親戚などから色々なことを言われたと聞きました。もちろん、私はそのことを知る由もありませんが、想像以上に苦労をしてきたんだと、何事もなかったかのように、タイミングを見て打ち明けてくれた母を見て余計に感じました。(私に話すことにも決心があったと思います)本来は障害者4級の資格もある病気ですが、私は本当に他におかしなところがなく、健康に過ごしてこれたので、この障害者の資格を謳うのも憚れるほどです。「原体験」という、今の自
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