「無」とは存在が無くなることではなくて、隔たりが無くなること

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(ちょっとの気づきであなたは変わる)

元々ひとりだった。運よくこの世に生まれ、この家族や恋人、友だちに出会った。だから始めから失うものなんて何も無い。生まれたとき、大泣きする私を母が抱きかかえ、その周りで家族みんなが笑ってた。死ぬときは亡骸の私を皆が囲んで涙を流す。だから今度は微笑んで逝きたい。

終わったことは、すべてベストチョイスだと思っている。亡くなった人も「成仏」の言葉どおり仏に成って「すべて良し」と笑っている。

癌を発病して八年が経った。四か月間の入院、八か月間のリハビリ期間の後、何とか社会復帰できた。そしてまた心筋梗塞を発症した。今も自分の体調を整えながら仕事をしている。

その間に得たことは、「一生懸命は頑張ることとイコールではない」「無理をしないこと」。病気をする前は、いつも自分の気持ちに追い込まれていた。「あれをしたい」「これをしなければいけない」と常に追い込まれ、身体を休めることも忘れ、常に一生懸命だった。

今は、「一生懸命」を「丁寧」に変えて生きている。疲れたら休む、地味でも毎日を丁寧に過ごしている。

そしてこの間に気づいたこと、それがこの言葉だ。

「無」とは存在が無くなることではなくて、隔たりが無くなること

発病して入院中、いつも「死」という言葉が頭の中にあった。「おそらく死ぬんだろう」「もう終わり」「何もかも無くなる」、そんなことばかり考えていた。でも最近、この言葉がふと浮かんだ。

魂というものがあるならば、実はこの世にいる間に一時的にこの身体に住み着いているだけ、元々は違う世界にいるもの。そして違う世界にいるときはひとりの「人」としての魂の存在はなく、すべてが同じであること。他人との区別もなく、他の生き物との区別もない、空も星すらもすべて同じであること。

だから、死ぬことは「無」となり存在が無くなるのではなく、元々の世界に戻り他との隔たりが無くなること。そんなことに気づいた。

以前ヒットした「千の風になって」という曲。その歌詞の中で、「私はお墓のなかにいません」という歌詞がある。今この言葉の意味がよくわかる。

癌になったことで色々なことを学んだ。そして学んだことをブログに書いてきた。書いたことは自分が出来てることではない。出来たり出来なかったりの毎日だ。でも毎日を丁寧に過ごせば、徐々に心の、魂の筋力がついてくると思っている。


今世の中が大きく動いている。「これからどうなっていくのか」「感染者が増えて経済も駄目になる」? そんなことはない。個を充実させる人が増えれば、「ポストコロナ」の世界はバージョンアップする。また始めればいいだけだ。


本当に必要なものを思い出すときがきた。
今度は時間をかけていい。ゆっくりでいい。

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