「しあわせは、なるものではなく感じるもの」
と言った人がいた。
それでも多くの人は、「しあわせを感じたい」と言わず、「しあわせになりたい」と言う。
「しあわせになる」ためには、昇るべき階段がある。軋む階段はひとつひとつの試練や苦労をイメージさせ、しあわせは上に行かないと、苦労を克服しないと見られない頂上の景色とされてきた。
足元に小さな「しあわせ」があったのに、階段の上ばかりを見ている。だから、足裏に触れる温かな感触を感じることができなかった。「しあわせ」は階段の上だけにあると信じ込んでいた。
でも、それは違うんじゃないか?
「しあわせ」という言葉の元々の意味を調べてみた。
「しあわせ」は「仕合わせ」であり、良いこと悪いことのめぐり合わせであるという。中島みゆきの「糸」にも、この「仕合わせ」が書かれている。
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます
「仕合わせ」は良いことばかりじゃない。めぐり合わせを受け入れて、すべてを感じることだと思う。
そして、この「めぐり合わせ」も一生の中で割合があるという。
悲しい時はシクシクと泣く 4×9=36
嬉しい時はハッハッと笑う 8×8=64
合わせて人の一生は100になる
100%、「幸せ」でいることはない。
だから、36%の不幸せの中にいると「自分は不幸だ」と感じてしまう。
そのとき、64%の「しあわせ」を忘れている。過去、どれだけ「幸せ」であったかも都合よく忘れている。
「しあわせになる」とは、その時の「しあわせを感じる」ことだと思う。
足裏に触れる温かな感触を思い出すことだと思う。
「人生プラスマイナスして、しあわせだった」ではない。
プラスマイナスでなく、その時のしあわせを感じることだと思う。
不幸な出来事は多くの人に共有される。災害や事件、事故は、毎日ニュースで共有される。だから、不幸は探さなくてもあちらから音を立てて近づいてくる。比べて幸せな(しあわせに感じる)出来事は、静かで平穏のなかにある。だから本当はしあわせなことが多いのに(64%もある)、悪いことばかり数えてみんな希望を失っている。
相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の事件から5年が過ぎた。遺族が意見陳述するなかで、犯行を正当化し続ける被告に対して、「苦労と不幸は違う」と反論していた。
苦労はしたが不幸ではなかった。
苦労があっても幸せを想うことはある。
だから、小さなしあわせを数え上げてみよう。
しあわせを感じるために、素敵なことを探しにいこう.
これで、しあわせを見つけて感じることが出来る。