まねるはまねではない

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「誰かをまねるのは嫌です」と言う人は多い。

でも、その言葉の裏には少し誤解があるように見えます。

どれだけまねても、その人そのものには絶対になれません。むしろ、まねればまねるほど、あなた自身があぶり出されていきます。

人は完全なコピーにはなれません。声の高さ、体の使い方、思考の癖、育ってきた環境、これらすべてが違う以上、同じ形をなぞっても必ずズレが生まれます。そのズレこそが個性の正体です。だからこそ、まねることは個性を消す行為ではなく、逆に浮き上がらせる行為なのです。

たとえば伝統芸能。歌舞伎や落語の世界では、まず徹底的に型を叩き込まれます。動き、間、声の出し方、視線の置き方。師匠のやることをそのままなぞる。それを何年も何十年も続ける。それでも、全く同じにはならない。むしろ、長く続けた人ほど違いが際立っていきます。つまり、型に忠実であればあるほど、個性が漏れ出る構造になっているのです。

ここで勘違いしてはいけないのは、派手さ=個性ではないということです。最近はとくに、若い人たちが「目立つこと」を個性だと思い込みやすい。奇抜な服装、大げさな言動、過剰な演出。それらは確かに目を引きます。でも、それは個性ではなく、ただのデコレーションです。言い換えれば、外側に貼り付けた飾りにすぎません。

本当の個性は厄介です。隠そうとしても隠せない。整えようとしてもはみ出してくる。どれだけ抑えても、どこかから滲み出る。それが個性です。そしてそれは、本人にとってはむしろコンプレックスであることすら多い。

声が低い、高い。話し方が遅い、早い。考えすぎる、考えなさすぎる。頑固、優柔不断。これらは直したい欠点として扱われがちですが、実はそのまま強烈な個性の種です。だからこそ、表面的な演出でそれを覆い隠すほど、逆に薄っぺらくなってしまう。

個性を出そうとしているうちは、まだ個性は出ていません。

なぜなら、本物の個性は「出すもの」ではなく「出てしまうもの」だからです。意識している時点で、それはすでに作為です。そして作為は、見る人には簡単に見抜かれます。違和感として。

ではどうすればいいのか。答えは単純です。まねることです。それも中途半端ではなく、徹底的に。自分がいいと思った人、すごいと思った人を、細部まで観察して、できるだけ正確に再現する。声のトーン、言葉の選び方、間の取り方、姿勢、習慣。ここまでやると、不思議なことが起きます。だんだん「同じにできない部分」が見えてくるのです。

その「できない部分」が、あなたです。

そしてもう一つ重要な視点があります。まねる対象は一人である必要はありません。むしろ複数の人を同時にまねるといい。Aさんの考え方、Bさんの話し方、Cさんの仕事の進め方。これらを混ぜていくと、必ず矛盾が生まれます。その矛盾をどう処理するかで、個性が形になります。いわば、衝突の中からしかオリジナルは生まれないのです。

さらに言えば、時代も関係します。同じ人をまねても、現代というフィルターを通すだけで結果は変わります。だから完全な再現など不可能です。環境そのものが違うのですから。

最後にもう一つだけ。

個性とは「評価されるもの」ではなく「差として現れるもの」です。

だから、評価を気にしすぎると逆に個性は消えます。無難な方向へ寄せようとするからです。でも差は、無難からは生まれません。少しズレている、少し不器用、少しやりすぎ。その中にしか、他人と違う輪郭は現れない。

まねることを恐れる必要はありません。

むしろ、まねを避けている人ほど、どこかで借り物の自分になっています。
徹底的にまねてください。

そして、どうしても同じにならない自分を観察してください。

そこに、消せないあなたがいます。


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