戦後の広島で
原爆ドームを残すか、取り壊すかという議論になったそうです。
ある被爆者は「辛いことを思い出すので取り除いてほしい」と意見を述べたそうです。
ごもっともなご意見だと思います。
もし、私が当事者としてその場にいたら同じような発言をしたでしょう。
しかし、今は客観的にみることができる立場で考えることができる精神的余裕もあります。
すると、どのようにこの問題をとらえるかと、向き合ってみました。
私の中には、
残すことによって、日本各地から、そして、世代を超えてこの地に足を運ぶきっかけとなります。
海外の人にも、ここで何があったのか知ってもらう良い機会を与えてくれるのが
そこに存在する「原爆ドーム」という象徴のような気がします。
そして、そこで起こったことや、悲劇を伝える人、受ける人が
様々な思いを巡らせて、自分の経験として何かを感じるでしょう。
その時、もし敵国「アメリカ人」が涙を流して共感してくれたら
もし、原爆は戦争を終わらせた正義の道具という教育を受けた人が
「間違っていた」と気づいたら
そこで、ボランティアとして被爆2世として活動している子供たちに
「許す」ということを体験を通じて、人間力を磨く一助になるものだとしたら
もし、この問題が「個人的な問題」であるならば、
残すことに意味
にも、今の立場からだと考えることもできる
取り壊してしまったら、
当時、苦しんで亡くなった人が無駄死になってしまわないか
ないものとして、歴史の闇に葬り去られるより
歴史の表舞台に立ち、
後世の人のために存在するための意義があるのであれば
彼らの死は無駄ではなくなるのではないかと
そして、生き残った人の使命として、
辛い悲しみを乗り越えて
「原爆ドーム」を意義あるものにできるお役目を頂けたと思い
活動を続けることに
責務を感じて行動することが
残すことに意味を見出した時
覚悟を決めて
「残してほしい」と言っても良いかもしれないと思いました。
これは原爆ドームという大きな課題だけでなく、
個人の日常に起こる数々の課題に対しても、
このような考え方を
今、ゆとりのあるうちにしておけば、
いざ、その時が来た時には、
「別の視点」を自分の中に見出せるような気がします。
残す残さないとかの話ではなく、
自分なら、この問題をどうとらえて、
自分なりの「答え」を持っておくことが
大事なのではないかと思いました。