『やさしさ迷惑37/100』

記事
学び
第37話
前に立つということ

前話:優作は、佐伯に声をかけることも、美月に謝ることも、桐谷の軽さを受け取ることもできなくなっていた。美月に「佐伯さんに、返事をさせないでください」と言われた言葉が残り、優しさも謝罪も、相手に何かを背負わせるものに見えてしまった。雨と雷の中、優作は駅のホームで電車に乗れず、自分が誰かの声を聞けなかったのではなく、誰にも自分の声を渡せなくなっていたのだと思った。

朝になっても、雨は降っていた。

けれど、昨日のような雨ではなかった。

窓を叩きつける音は弱まり、空の色も少しだけ薄くなっている。

遠くのビルの輪郭が、かろうじて見えた。

優作は、駅のホームでスマホを開いた。

昨夜から返せていなかった大槻のメールが、画面に残っている。

本日はご対応ありがとうございました。
明日の朝、少しだけ最終確認のお時間いただけますか?

返信欄を開く。

昨日は、ここで指が止まった。

承知しました。

確認します。

よろしくお願いします。

どの言葉も、自分の体から離れていった。

優作は、息を吐いた。

指先が少し冷たい。

本日、確認のお時間をください。
資料の最終確認だけでなく、前回の進め方について、私から整理させてください。

打ってから、しばらく送れなかった。

整理。

その言葉ですら、逃げ道に見える。

本当に整理したいのか。

それとも、また場をきれいに片づけたいだけなのか。

優作は画面を見つめた。

消そうとした。

でも、消さなかった。

送信した。

電車がホームに入ってきた。

今朝は、乗った。

会社に着くと、傘立ての周りにまだ水の跡が残っていた。

昨日よりは少ない。

でも、乾いてはいない。

優作は自分の席に鞄を置いた。

佐伯はもう来ていた。

画面を見ている。

美月は資料を開いている。

桐谷はコーヒーを飲んでいたが、何も言わなかった。

真壁は予定表を見ている。

黒川は変更履歴の一覧を確認していた。

仕事は、今日も始まっていた。

優作は佐伯の席の横を通った。

声をかけたい気持ちはあった。

昨日よりも、強くあった。

でも、その声が何を連れていくかも、もう知っていた。

大丈夫です。

分かっています。

ありがとうございます。

その返事を、また佐伯に探させるかもしれない。

優作は足を止めた。

佐伯が、少しだけ顔を上げた。

目は合った。

すぐに逸らされると思った。

でも佐伯は、逸らさなかった。

優作は、喉の奥に力を入れた。

「今日、前回の件を僕から話します」

佐伯は何も言わなかった。

優作は続けた。

「返事は、今いらないです」

佐伯の指が、キーボードの上で止まった。

小さく頷いたのか、ただ首が少し下がっただけなのか、分からなかった。

優作はそれ以上、待たなかった。

待てば、返事を探させる。

そう思った。

自席に戻る途中、美月と目が合った。

美月は立ち上がらなかった。

ただ、優作を見ていた。

優作は近づいた。

「今日、僕から話します」

美月は少しだけ間を置いた。

「佐伯さんを使わないでください」

短い言葉だった。

優作は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

「はい」

美月は続けた。

「反省を見せる場所にしないでください」

「はい」

それだけだった。

美月はそれ以上言わなかった。

優作も、言わなかった。

言えなかったのではない。

今は、言葉を増やすほど薄まる気がした。

大槻との確認は、十一時からになった。

小会議室ではなく、オンラインだった。

画面の向こうで、大槻はいつも通り明るかった。

「昨日はありがとうございました。かなり使いやすくなりました。営業側でも、この形ならだいぶ説明しやすいと思います」

優作は頷いた。

「ありがとうございます」

いつもなら、そこで資料の確認に入る。

相手の明るさに合わせる。

場を軽くする。

進む。

でも、今日は違った。

優作は、資料を開いたまま、画面を見た。

「資料の確認に入る前に、前回の進め方について、私から話させてください」

大槻の表情が少し止まった。

「進め方、ですか?」

「はい」

優作の声は、自分が思っていたよりも小さかった。

喉が狭い。

画面の中の大槻だけでなく、部屋の中の全員がこちらを見ているのが分かる。

佐伯はノートパソコンの端を見ている。

美月は画面を見ている。

桐谷はペンを持ったまま動かない。

真壁は腕を組んでいる。

黒川は何も言わない。

逃げたくなった。

ここで、いつもの言葉が喉まで来た。

誰が悪いという話ではなく。

全体の確認フローとして。

大槻さんの意図は分かっています。

佐伯だけの問題ではありません。

そのどれも、言えば場を少し柔らかくできる。

でも、その柔らかさの下で、また誰かの名前だけが残る。

優作は息を吸った。

「前回、数字の不備について、佐伯個人に責任が寄る空気がありました」

大槻の眉が、少しだけ動いた。

優作は続けた。

「私は、それを止める立場でした」

言葉が震えた。

「止めませんでした」

誰も動かなかった。

画面の向こうの大槻も、すぐには返さなかった。

前に立つとは、正しい言葉を選ぶことじゃない。
誰かの怒りが自分に向く場所から、逃げないことだ。

大槻が、少し困ったように笑った。

「いや、佐伯くんを責めたい意図ではなかったんですけどね」

その言葉に、優作の体が反応した。

分かっています。

そう言いたくなった。

大槻さんが悪いという話ではありません。

そう続けたくなった。

でも、それを言えばまた、何も起きなかったことに近づいていく。

優作は、指先を机の下で握った。

「はい。大槻さんが責めようとしたわけではないことは、分かっています」

そこで止めた。

少しだけ息を吸う。

「でも、結果として佐伯の名前だけが残りました」

大槻の笑みが消えた。

「その場で、私が止めるべきでした」

画面の端で、佐伯が少しだけ顔を上げた。

優作はそちらを見なかった。

見れば、何かを求めてしまう気がした。

承認。

許し。

救い。

それをもらうために、今話しているのではない。

「今後の確認体制は、個人名ではなく工程として設計します」

優作は言った。

「数字まわりは、作成者と確認者を分けます」

「最終責任は、私が持ちます」

自分の声が、どこか遠くから聞こえた。

大槻は画面の向こうで、腕を組んだ。

「そこまで重く捉える話ですかね」

その一言で、部屋の空気が変わった。

嫌な空気ではない。

現実の空気だった。

仕事なんだから。

誰も責めてないんだから。

再発防止の話なんだから。

いちいち重くすると、動きづらくなる。

大槻の言い分は、分かる。

分かるからこそ、昨日までの優作ならそこで折れた。

「そうですね」

喉の奥まで出かけた。

その二文字が、舌の上に乗った。

言えば、楽になる。

言えば、画面の向こうの大槻も、少し表情を戻す。

部屋の中の空気も、少し緩む。

いつもの自分に戻れる。

優作は、その二文字を飲み込んだ。

飲み込んだあと、胸の奥が痛んだ。

「重くします」

声は、やはり少し震えていた。

でも、逃げなかった。

「軽くすると、また誰か一人が黙るので」

大槻は黙った。

桐谷が、小さく息を吸ったのが分かった。

美月は動かなかった。

佐伯も動かなかった。

真壁が、ほんの少しだけ目を伏せた。

黒川は画面を見たままだった。

大槻は、困ったように視線を横へ逃がした。

「……なるほど」

完全に納得した声ではなかった。

それでよかった。

納得させることが目的ではない。

嫌われないことが目的でもない。

場を少しだけ気まずくしてでも、そこで止めること。

その気まずさを、誰かに代わりに背負わせないこと。

優作は、やっとそれを理解し始めていた。

「資料そのものについては、営業側の使いやすさを踏まえて調整します」

優作は続けた。

「ただ、今後は個人の不安材料としてではなく、工程の確認項目として扱わせてください」

大槻は少し間を置いて、頷いた。

「分かりました」

短かった。

「工程として、ということで」

「はい」

「では、その前提で資料確認に戻りましょう」

淡々とした声だった。

冷たくはない。

でも、温かくもない。

画面の向こうに、少しだけ距離ができた。

それも、優作が引き受けるものだった。

会議は、その後、資料確認へ移った。

空気は重かった。

いつものように軽くはならなかった。

大槻も、少し言葉を選んでいた。

それでも、仕事は進んだ。

誰かが無理に笑わなくても。

誰かが大丈夫と言わなくても。

誰かが強い人にならなくても。

仕事は、少し遅く、少し不器用に進んだ。

会議が終わると、画面が暗くなった。

部屋の中に、雨音だけが残った。

優作は、椅子からすぐに立てなかった。

体の中の力が抜けている。

何かを成し遂げた感じはなかった。

むしろ、怖さだけが遅れて戻ってきた。

今の言い方でよかったのか。

大槻は気分を悪くしたのではないか。

営業側との関係が悪くなるのではないか。

佐伯はどう受け取ったのか。

美月はどう見たのか。

また、自分のことを考えそうになる。

優作は、机の下で拳を握った。

真壁が最初に立ち上がった。

「十五時までに、工程表だけ直す」

黒川が頷く。

「確認項目に修正します」

桐谷が画面を閉じながら言った。

「営業向けの言い方、ちょっとだけ整えます」

いつもの軽さではなかった。

でも、昨日のような沈黙でもなかった。

美月は佐伯の方を見た。

「数字まわり、私も見ます」

佐伯は小さく頷いた。

「お願いします」

大丈夫です、とは言わなかった。

そのことに、優作は息を止めそうになった。

でも、見ないようにした。

そこに救いを探してはいけない。

佐伯が何を言わなかったかを、自分の回復に使ってはいけない。

責任を取るとは、全部を自分のせいにすることではない。
誰か一人に落ちそうな重さを、自分の前で止めることだ。

夕方前。

修正作業が一段落した頃、優作は佐伯の席の横に立った。

声をかける前に、一度だけ息を整えた。

佐伯が画面から目を離す。

目は、合わなかった。

佐伯は、画面の少し下あたりを見ていた。

それでも優作は言った。

「前回の場で、僕は止めるべき言葉を止めませんでした」

佐伯は何も言わなかった。

「佐伯に責任が寄る空気を、僕が止めませんでした」

優作は、そこで言葉を止めた。

謝りたい。

本当は、謝りたかった。

でも、今日はその言葉を佐伯に渡さない。

「これは、返事はいらないです」

佐伯の手が、机の上で少しだけ動いた。

「僕が、伝えておくべきことです」

佐伯は、すぐには何も言わなかった。

長い沈黙があった。

優作は、その沈黙の中に立っていた。

怖かった。

何か言ってほしかった。

大丈夫です、と言われたかった。

分かりました、と返してほしかった。

でも、それを待つためにここへ来たのではない。

優作は、一歩だけ下がった。

「作業、続けてください」

佐伯は、画面に目を戻した。

少しして、低く言った。

「……はい」

それだけだった。

目は合わなかった。

十分だった。

いや、十分だと思おうとした。

それ以上を欲しがる自分を、優作は机の下に置いていった。

窓の外を見ると、雨はだいぶ弱くなっていた。

雲はまだ厚い。

けれど、さっきよりも空が明るい。

ガラスに残った雨粒が、ゆっくり下へ流れている。

美月が、給湯室の前で紙コップを持っていた。

優作は少し迷ってから、近づいた。

「相沢さん」

美月は振り返った。

「はい」

「今日、ありがとうございました」

言ってから、優作はすぐに気づいた。

また受け取らせようとしている。

感謝ですら、時には相手に役割を渡す。

優作は言葉を止めた。

「すみません」

その謝罪も違う。

言った瞬間、自分で分かった。

美月は、紙コップを持ったまま、優作を見ていた。

「中村さん」

「はい」

「遅かったです」

短い言葉だった。

胸に、まっすぐ入った。

優作は頷いた。

「はい」

美月は、窓の外を見た。

雨粒が、ガラスをゆっくり伝っている。

「佐伯さんは、昨日もしんどかったと思います」

「はい」

「私も、しんどかったです」

「はい」

優作はそれ以上、言わなかった。

美月は少しだけ黙った。

その沈黙は、優作を責めるためのものではなかった。

でも、許すためのものでもなかった。

ただ、そこにあった。

美月は紙コップに視線を落とした。

「でも」

少し間が空いた。

「逃げなかったことは、見ていました」

優作は、ありがとうございますと言いそうになった。

言わなかった。

受け取ってもらう言葉にしたくなかった。

優作は、ただ頷いた。

「はい」

美月はもう一度、窓の外を見た。

そのあと、優作から少し目を逸らした。

許されたわけではない。

そう分かる距離だった。

それでも、さっきまでより少しだけ、息ができた。

優しさは、寄り添うだけでは足りない時がある。
嫌われる場所に立ってでも、誰かを一人にしないことがある。

退社する頃には、雨はほとんど止んでいた。

エントランスに出ると、空気はまだ湿っていた。

道路には水たまりが残っている。

傘を差している人も、差していない人もいた。

桐谷が後ろから来て、立ち止まった。

「中村さん」

優作は振り返る。

桐谷は少し迷ったように笑った。

「今日の会議、空気重かったっすね」

「うん」

「でも、なんか」

桐谷は言葉を探した。

いつものように軽くまとめようとして、少しだけやめた顔をした。

「重いままでも、終わるんすね」

優作は少しだけ息を吐いた。

「そうだね」

桐谷は傘を軽く振った。

「じゃ、お疲れさまです」

「お疲れさま」

桐谷は歩いていった。

軽さは戻っていなかった。

でも、完全に失われたわけでもなかった。

その時、スマホが震えた。

大槻からのメールだった。

本日はありがとうございました。
工程表ベースで進めてください。
資料の最終版は、明日午前中に営業側で確認します。

それだけだった。

感謝はある。

でも、熱はなかった。

優作はその文面を見て、少しだけ息を吸った。

関係が少し冷えたのかもしれない。

面倒な人だと思われたのかもしれない。

重いと言われた空気が、しばらく残るのかもしれない。

それでも、今日はその冷たさを誰かに渡さなかった。

優作はスマホを閉じた。

ビルの外に出た。

雲の切れ間から、細い光が落ちていた。

強い光ではない。

空を全部変えるほどのものでもない。

ただ、濡れた道路の一部だけが、淡く光っている。

優作の靴は、まだ湿っていた。

地面も、まだ乾いていない。

何も元には戻っていない。

佐伯が許したわけではない。

美月が許したわけでもない。

大槻がすべて納得したわけでもない。

優作自身も、自分を許せたわけではない。

それでも、今日は逃げなかった。

優作は水たまりを避けずに、一歩踏み出した。

靴底に、水の感触があった。

冷たかった。

でも、立っていられた。

空は、まだ完全には晴れていなかった。

それでも、濡れた地面の上に、光だけは落ちていた。

第38話へ続く。
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