『やさしさ迷惑38/100』

記事
学び
第38話
大丈夫じゃなくても、ここにいていい

前話:優作は、大槻との確認の場で、佐伯個人に責任が寄る空気を止めなかったことを、自分の言葉で認めた。「重くします。軽くすると、また誰か一人が黙るので」と、初めて嫌われる場所に立った。佐伯に返事を求めず、自分が止めるべきだったことだけを伝え、美月には「遅かったです」と言われながらも、「逃げなかったことは、見ていました」とだけ告げられた。雨はほとんど止んでいたが、地面はまだ乾いていなかった。

翌朝、空は青かった。

久しぶりに見る青だった。

けれど、道路の端にはまだ水たまりが残っていた。

歩道のタイルは湿っていて、ビルの影に入ると、昨日の雨がまだそこに座っているように見えた。

優作は、駅へ向かう途中で足を止めた。

小さな水たまりに、空が映っている。

青いのに、揺れていた。

誰かが横を通るたびに、水面が少し震える。

空は晴れている。

でも、足元はまだ濡れている。

それだけのことが、今朝の優作にはやけに正しく思えた。

会社に着くと、傘立ては空いていた。

昨日まで立てかけられていた濡れた傘は、ほとんどなかった。

それでも床の隅には、乾ききらない水の跡が薄く残っている。

桐谷が、それを見て言った。

「中村、床だけ昨日引きずってるな」

優作は、少しだけ口元を動かした。

「ほんとだね」

「いや、晴れてる顔しといて、足元だけ未練がましいっていうか」

桐谷はそこまで言って、自分で少し止まった。

「……まあ、床の話だけど」

優作は頷いた。

「うん。床の話だね」

それ以上、桐谷は笑いにしなかった。

持っていたコンビニ袋を軽く上げる。

「コーヒー、一本余った」

優作は袋を見る。

缶コーヒーが二本入っていた。

桐谷は優作の机に置きかけて、やめた。

その小さな動きに、優作は気づいた。

桐谷も、気づかれたことに気づいたような顔をした。

「共有んとこ置いとくわ」

「うん」

「飲みたいやつが飲めばいいし」

「うん」

桐谷は共有スペースの端に缶を一本置いた。

優作の前ではなく。

誰かの返事を待つ場所でもなく。

ただ、そこに置いた。

優作は、その一本を見た。

差し出さない優しさもあるのだと、少し遅れて思った。

自席に着くと、佐伯はもう来ていた。

画面を見ている。

昨日と同じように見える。

でも、ほんの少しだけ違った。

姿勢が固いのは変わらない。

表情も明るくはない。

けれど、机の端に置かれた資料には、昨日の修正履歴ではなく、新しい工程表が開かれていた。

作成者。

一次確認。

最終確認。

個人名ではなく、役割名で並んでいる。

真壁が近くで言った。

「今日からこれで回す」

黒川が補足する。

「記録にも残します。誰が悪いかではなく、どこで確認するかが見える形です」

美月は、画面を見たまま頷いた。

「数字まわりは、最初から確認者を置きます」

佐伯は小さく返した。

「はい」

優作は、その「はい」を聞いた。

大丈夫です、ではなかった。

それだけで胸が熱くなりそうになって、優作はすぐに目を伏せた。

それを自分の救いにしてはいけない。

佐伯が大丈夫と言わなかったことを、自分の回復の証拠にしてはいけない。

午前十時。

営業資料の最終版が共有された。

大槻からのメールは短かった。

最終版、確認しました。
資料としては問題ありません。
確認体制については、工程表ベースで進める認識で揃えています。

それだけだった。

明るい感嘆符はなかった。

昨日までのような柔らかさもなかった。

でも、拒絶でもなかった。

優作は、その文面を見つめた。

昨日の自分が前に立ったことで、少し距離ができたのかもしれない。

面倒な人だと思われたのかもしれない。

重くされた、と思われたのかもしれない。

それでも、その冷たさを佐伯に渡さなかったことだけは、優作の中に残っていた。

真壁が画面を見ながら言った。

「じゃあ、この版でクローズ」

桐谷が小さく手を上げる。

「表現一箇所だけ、営業っぽくしすぎたかもしれないっす」

黒川が見る。

「どこですか」

「ここです。“必ずご確認ください”って、なんか怖くないすか」

美月が画面を覗き込む。

「“確認をお願いします”でいいと思います」

佐伯が言った。

「その方が、押しつけ感はないです」

優作は、佐伯の声を聞いた。

会議室ではなく、普通の席で、普通に出た声だった。

真壁が頷く。

「じゃあそこだけ直す」

仕事は、淡々と進んだ。

少し遅く。

少し不器用に。

でも、誰か一人が黙って飲み込む形ではなかった。

昼休みの少し前、佐伯が優作の席の横に立った。

優作は、画面から顔を上げる。

佐伯は、資料を持っていた。

「中村さん」

「はい」

佐伯は、すぐには言わなかった。

優作も、先に言わなかった。

言葉を助けるために待つのではなく、言葉を奪わないために待った。

佐伯は、少し目を伏せた。

「昨日のこと」

優作は頷いた。

「はい」

「まだ、大丈夫ではないです」

胸の奥が、静かに痛んだ。

でも、それは昨日までの痛みとは違った。

大丈夫ではない。

その言葉が、ここに出てきた。

佐伯の口から出てきた。

優作は、何かを言いそうになった。

ごめん。

分かってる。

無理しなくていい。

その全部が喉の近くに来て、止まった。

優作は、ただ頷いた。

「はい」

佐伯は、少しだけ顔を上げた。

「でも、資料は一緒に見ます」

仕事なので、と言いかけたように見えた。

でも佐伯は、言わなかった。

代わりに、資料を少しだけ持ち直した。

「確認、お願いします」

優作は、ゆっくり頷いた。

「一緒に見ます」

それだけ言った。

任せて、とは言わなかった。

大丈夫にする、とも言わなかった。

守る、とも言わなかった。

佐伯は小さく頷いた。

目は、一瞬だけ合った。

すぐに逸れた。

それでよかった。

大丈夫じゃないと言える場所は、優しさだけでは作れない。
返事を急がせない沈黙が、ようやく人をそこに戻していく。

資料を並べて確認する。

佐伯が数字を読む。

優作が参照元を見る。

黒川が履歴を確認する。

美月が表現の引っかかりを拾う。

桐谷が営業側の言い回しを直す。

真壁が時間を見ている。

誰か一人の机に重さが落ちないように、少しずつ分けて持つ。

それは、きれいなチームワークではなかった。

手際がいいわけでもなかった。

時々、沈黙が落ちる。

言葉を探す時間ができる。

佐伯が言い直す。

美月が一度、言葉を飲んでから、短く言う。

桐谷が軽口を言いかけて、違う言い方にする。

真壁が急がせようとして、いったん止まる。

黒川が正しさを置く前に、少しだけ相手を見る。

優作は、それを見ていた。

今までなら、早く空気を戻したいと思った。

重くならないように、誰かが傷つかないように、全員が進みやすいように。

でも今日は、重さを消すより、重さの置き場所を見ていた。

午後一時。

全員で最終確認を終えた。

真壁が言う。

「これで出す」

誰も異論を出さなかった。

佐伯が、優作の方を見ずに言った。

「数字まわり、確認済みです」

優作は頷いた。

「確認しました」

その返事だけで終わった。

余計なものを足さなかった。

終わったあと、桐谷が椅子にもたれた。

「大丈夫じゃない報告、いいっすね」

佐伯が少しだけ眉を寄せた。

桐谷はすぐに手を上げた。

「あ、茶化してない。ほんとに」

佐伯は何も言わなかった。

桐谷は、少し考えてから続けた。

「俺、すぐ大丈夫っすって言うんで」

それだけ言って、缶コーヒーを開けた。

小さな音がした。

佐伯は、ほんの少しだけ口元を動かした。

笑ったとは言えない。

でも、表情が完全には固まっていなかった。

優作は、その変化を見ていた。

何かを言いたくなった。

でも、言わなかった。

その小さな変化も、佐伯のものだった。

自分が受け取るものではない。

午後の役員説明に向けて、資料は営業側へ渡された。

こちらの作業は一段落した。

オフィスの空気は、少しだけ通常に近づいていた。

けれど、以前と同じではない。

同じに戻らなくていいのかもしれない。

優作は、そう思った。

美月が給湯室から戻ってきた。

紙コップを持っている。

優作の机の横で足を止めた。

「中村さん」

「はい」

美月は、少しだけ優作を見た。

「少し、変わりましたね」

優作は、すぐに返事を探した。

ありがとうございます。

そう言いかける。

美月は、その前に言った。

「褒めてはいません」

優作は言葉を止めた。

美月は目を逸らさなかった。

「見ているだけです」

それだけだった。

許すとは言わなかった。

分かりましたとも言わなかった。

大丈夫とも言わなかった。

ただ、見ているだけ。

その距離が、今の美月らしかった。

優作は頷いた。

「はい」

美月は、自分の席に戻っていった。

優作は、その背中を見送った。

追わなかった。

声を足さなかった。

足さないことが、ようやく少しだけできるようになっていた。

許されようとすると、また相手を黙らせる。
先に戻すべきなのは、返事をしなくてもいられる場所だった。

夕方、営業側から役員説明が終わったという連絡が入った。

大槻からだった。

役員説明、完了しました。
資料としては問題なく通りました。
確認体制についても、工程表ベースで進める認識で揃えています。

それだけだった。

それ以上はなかった。

よかったですね、もない。

またお願いします、もない。

絵文字もない。

余白のない、業務の文面だった。

優作は、その文面を見た。

胸の奥に、小さな息が入った。

同時に、少しだけ冷たさも残った。

これで全部が戻ったわけではない。

大槻との距離も、少し変わったのかもしれない。

それでも、工程表は残った。

佐伯の名前だけが残る形ではなく、工程が残った。

それで十分だと思った。

いや、十分と思えるように、これから自分がやっていくしかないのだと思った。

真壁がメールを見て言った。

「一旦、終わりだな」

黒川が頷く。

「工程表は保管します。次回以降の標準にします」

桐谷が言う。

「標準って言うと、急に黒川さんっぽいっすね」

黒川が見る。

「標準ですから」

「返しも標準っすね」

黒川は何も言わなかった。

その沈黙を、桐谷は無理に笑いにしなかった。

ほんの少しだけ、空気が動いた。

大きな笑いではなかった。

でも、誰かの痛みを隠すための笑いでもなかった。

佐伯が画面を見たまま、ほんの少し口元を緩めた。

優作は、それを見ていた。

見ていただけだった。

夕方の光が、ブラインドの隙間から入っていた。

雨上がりの光は、いつもより柔らかい。

机の上の資料の端を、薄く照らしている。

優作は、ふと昨日の自分を思い出した。

駅のホームで電車に乗れなかった自分。

誰にも声を渡せなくなっていた自分。

その自分が、完全にいなくなったわけではない。

たぶん、これからも何度も出てくる。

言いたくない場面。

嫌われたくない場面。

誰かの痛みと、自分の弱さが同じ場所に並ぶ場面。

そのたびに、きっと迷う。

また逃げそうになる。

また、誰も悪くないと言いたくなる。

また、大丈夫かと聞いて、返事をもらいたくなる。

それでも、今日、佐伯は言った。

まだ、大丈夫ではないです。

その言葉が、この場に残った。

大丈夫じゃないと言える声が、消えずに残った。

それだけで、少しだけ違う場所に来た気がした。

退社時間になった。

外に出ると、空はまだ青かった。

雲はある。

けれど、雨は降っていない。

道路の水たまりには、夕方の光が映っていた。

優作は、ビルの前で立ち止まった。

後ろから佐伯が出てきた。

少し離れたところで足を止める。

優作は振り返った。

佐伯は、すぐには何も言わなかった。

優作も待った。

今度は、返事を求めるためではなく。

佐伯が言葉を探す時間を、佐伯のものとして置いておくために。

「中村さん」

「はい」

「僕、まだ少し怖いです」

優作は、頷いた。

胸の奥が痛かった。

でも、その痛みをすぐに消そうとは思わなかった。

「はい」

佐伯は、視線を少しだけ落とした。

「でも、次の確認、お願いします」

優作は、息を吸った。

任せてください。

大丈夫です。

もう同じことはしません。

そのどれも、喉まで来なかった。

来たとしても、言わなかったと思う。

優作は、短く言った。

「一緒に見ます」

佐伯は小さく頷いた。

「はい」

それだけだった。

二人の間に、沈黙が残った。

でも、その沈黙は昨日のものとは違った。

何かを隠す沈黙ではなかった。

返事を急がせる沈黙でもなかった。

ただ、そこに置いておける沈黙だった。

優しさは、相手の痛みを消すことではない。
痛みが残ったままでも、その人がそこにいていいと示し続けることだ。

桐谷が少し後ろから出てきた。

「お、晴れてる」

真壁も続いて出てくる。

「明日は傘いらないかもな」

黒川が言った。

「降水確率は確認した方がいいです」

桐谷が笑う。

「黒川さん、そこは晴れたねでよくないすか」

「天気と降水確率は別です」

「出た、別です」

美月が最後に出てきて、呆れたように二人を見た。

「帰りますよ」

桐谷が軽く手を上げる。

「はいはい」

そのやり取りは、以前と同じようで、少し違っていた。

誰かが重さを隠すために笑っているわけではなかった。

誰かが大丈夫と言わされているわけでもなかった。

完全に戻ったわけではない。

でも、戻らなくても続けられる形が、少しだけ見えた。

優作は歩き出した。

佐伯は、少し離れて隣を歩いた。

その距離を、優作は詰めなかった。

美月も、何も言わなかった。

桐谷の声が前の方で響く。

真壁がそれに短く返す。

黒川が訂正する。

佐伯は、黙って歩いている。

優作も、黙って歩いた。

足元には、水たまりが残っていた。

空は青い。

けれど、地面はまだ乾いていない。

優作は、水たまりを避けずに歩いた。

靴底に、少しだけ水が跳ねる。

冷たくはなかった。

雨は止んだ。

けれど、濡れたものがすぐに乾くわけではない。

それでも、雨の中で失くしたものを、晴れた日に全部取り戻そうとしなくていいのだと思った。

乾いていない場所に、乾いていないまま立つ。

大丈夫ではない人の隣に、大丈夫にしようとせずに立つ。

優しさは、そういう形にもなれるのかもしれなかった。

優作は、佐伯の少し後ろを歩いた。

追い越さなかった。

横に並ぼうともしなかった。

でも、離れもしなかった。

青い空が、水たまりの中で揺れていた。

その揺れた青を踏み越えて、優作は前へ進んだ。

乾いていない場所からでも、もう一度始められることがある。

そう思えたのは、今日が初めてだった。

第39話へ続く。

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