第39話
晴れた日のぎこちなさ
前話:優作たちは、佐伯が「まだ、大丈夫ではないです」と言える場所を、少しだけ取り戻した。優作は、謝罪や安心の言葉を急がず、「一緒に見ます」とだけ返した。すべてが元に戻ったわけではない。けれど、乾いていない場所からでも、もう一度始められることがある。雨は止み、青い空が水たまりの中で揺れていた。
翌週の月曜日は、何もなかったみたいに晴れていた。
駅前のコンビニには、濡れた傘を入れる袋がもう置かれていない。
会社の入口にも、水の跡はなかった。
床は乾いている。
窓も乾いている。
誰かの靴音も、軽い。
優作はエレベーターの中で、壁に映る自分の顔を見た。
先週より少し疲れて見える。
でも、何かが劇的に変わった顔ではなかった。
変わった人の顔というものがあるなら、もう少し分かりやすいのだと思っていた。
目つきが変わるとか。
背筋が伸びるとか。
話し方がはっきりするとか。
そういうものだと思っていた。
けれど、エレベーターの壁に映っているのは、いつもの中村優作だった。
少し寝不足で、少し迷っていて、出社前からもう何かを考えすぎている顔。
扉が開いた。
オフィスは、いつも通りだった。
桐谷が席でパンをかじっている。
真壁は朝の予定を見ている。
黒川はすでに画面を開いている。
美月はイヤホンを外して、ノートを閉じた。
佐伯は資料を確認していた。
優作は、自分の席に鞄を置いた。
「中村」
桐谷が口を開いた。
「月曜の顔してるな」
優作は少しだけ笑った。
「月曜だからね」
「もっとこう、金曜の残り香みたいなの持ってこいよ」
「残り香って何」
「知らん。言ってから思った」
桐谷はそう言って、パンの袋を丸めた。
いつもの軽口だった。
優作は、普通に笑えばよかった。
前なら、笑っていた。
たぶん、何も考えずに。
でも、口元が少し遅れた。
笑っていいのか、と一瞬考えた。
桐谷の冗談に、何かの重さがあるわけではない。
誰かを踏んでいるわけでもない。
それなのに、優作は一度、場の温度を測ってしまった。
桐谷がそれに気づいた。
「……今のも、何か引っかかった?」
「いや」
優作はすぐに言った。
すぐに言いすぎた。
桐谷は、少しだけ目を細めた。
「いや、って顔じゃないんだよな」
優作は言葉を探した。
「引っかかったというか」
「うん」
「前なら、たぶん何も考えずに笑ってた」
桐谷は、丸めたパンの袋を机の上で転がした。
「それは、良い変化なのか、めんどくさい変化なのか」
優作は少し考えた。
「分からない」
「正直でよろしい」
桐谷は軽く言った。
でも、すぐには笑わなかった。
その間が、前より少し長かった。
変わることは、強くなることだけではない。
前なら笑えた場所で、もう笑えなくなることでもある。
朝の共有会は、九時半からだった。
今日の議題は軽かった。
先週の資料案件は一区切りし、今週は社内説明用の補足シートを作る。
大きなトラブルではない。
誰かを責める話でもない。
ただ、前の工程表をもとに、確認役を決めていくだけだった。
真壁がホワイトボードに書く。
「作成、一次確認、最終確認。ここは先週と同じでいく」
黒川が頷く。
「今回も工程表に残した方がいいです」
桐谷が言った。
「黒川さん、工程表って言葉好きっすよね」
「必要だから使っています」
「好きじゃないんすね」
「好き嫌いで工程を組みません」
「出た。工程に感情を持ち込まない男」
少しだけ空気が動いた。
桐谷の軽口に、真壁が小さく笑った。
美月も口元だけ動かした。
佐伯は画面を見たままだったが、固まってはいなかった。
優作は、少し遅れて笑った。
遅れたことに、自分で気づいた。
桐谷も気づいた。
でも、今度は何も言わなかった。
真壁が続ける。
「じゃあ、一次確認は佐伯でいいか」
その瞬間、ほんの少しだけ空気が止まった。
真壁も、自分で気づいたようにペンを止めた。
佐伯は顔を上げない。
美月が真壁を見る。
黒川は画面から目を離した。
桐谷は口を開きかけて、閉じた。
優作の胸にも、短い緊張が走った。
佐伯に確認を任せること自体は悪くない。
むしろ、佐伯の能力を外す必要はない。
でも、先週の後で、その言い方は少しだけ固い場所に触れた。
真壁がすぐに言い直した。
「悪い。役割で言う」
ホワイトボードの文字を消す。
「一次確認は、数字の参照元を見られる人。今回は佐伯が担当できるならお願いしたい」
佐伯が画面から顔を上げた。
少しだけ間があった。
「できます」
「頼む」
それだけだった。
誰も大きく頷かなかった。
誰も安心した顔を作らなかった。
ただ、次に進んだ。
優作は、その小さな言い直しを見ていた。
真壁が完璧だったわけではない。
佐伯が平気だったわけでもない。
場が自然だったわけでもない。
でも、止まって、言い直して、また進んだ。
ぎこちなかった。
けれど、ぎこちなさのまま進めた。
それが、少しだけ不思議だった。
「中村」
真壁が言った。
「最終確認、いけるか」
優作は顔を上げた。
「はい」
そう言ってから、少しだけ止まる。
前なら、続けていた。
任せてください。
見ておきます。
大丈夫です。
そのどれかを、自然に言っていた。
でも今は、その言葉を選べなかった。
真壁が待っている。
佐伯も見ている。
美月も見ている。
優作は、短く言った。
「確認します」
それだけだった。
真壁は頷いた。
「頼む」
会議はそのまま進んだ。
何かが綺麗に解決したわけではない。
ただ、前と同じ言葉を、前と同じようには選べなくなっていた。
人は変わった瞬間に、別人になれるわけじゃない。
ただ、前と同じ言葉を選べない自分に気づくだけだ。
昼前、優作は補足シートの確認をしていた。
佐伯からチャットが届いた。
一次確認、完了しました。
参照元の表記を一箇所修正しています。
優作は返信欄を開いた。
ありがとう。
打ちかけて、少し考える。
感謝が悪いわけではない。
ありがとうを言ってはいけないわけでもない。
でも、自分が楽になるためのありがとうになっていないか。
相手に「いえ、大丈夫です」と返させるありがとうになっていないか。
考えすぎだと、自分でも思った。
たった一言の返信に、どれだけ時間をかけているのか。
それでも、もう何も考えずには打てなかった。
優作は一度消して、打ち直した。
確認しました。修正箇所も見ます。
送信した。
少しして、佐伯から返事が来た。
お願いします。
それだけだった。
優作は画面を見た。
大丈夫です、ではない。
承知しました、でもない。
お願いします。
前より少しだけ、佐伯の言葉が佐伯のものに見えた。
それを嬉しいと思いかけて、優作は小さく息を吐いた。
嬉しいと思うことも、少し怖かった。
相手の変化を、自分の成果にしたくなかった。
昼休み。
桐谷が自販機の前で優作に声をかけた。
「中村、飯行く?」
「うん」
「ラーメン?」
「重くない?」
「先週に比べたら軽いだろ」
言ってから、桐谷は一瞬止まった。
優作も止まった。
先週。
その言葉が、二人の間に落ちた。
桐谷は自分で額を押さえた。
「あー、今の、違うな」
優作は首を振った。
「いや」
「いや、じゃない顔するなって」
「ごめん」
「謝るほどでもない」
二人は自販機の横に立ったまま、少し黙った。
昼休みのオフィスは、いつもよりざわざわしている。
誰かが笑っている。
誰かがコンビニ袋を下げて歩いている。
その普通の中で、二人だけが少し立ち止まっていた。
桐谷が缶コーヒーのボタンを押した。
「前みたいに、全部ノリで戻ると思ってたわ」
缶が落ちる音がした。
「俺が」
優作は言った。
「うん」
桐谷は缶を取り出す。
「でも、戻らねえな」
優作は自販機の光を見た。
「戻らないね」
「戻したい?」
優作はすぐには答えなかった。
前の方が楽だった。
桐谷が冗談を言って、自分が笑って、真壁が進めて、美月が少し刺して、黒川が正して、佐伯が大丈夫と言う。
それが良かったとは思わない。
でも、慣れていた。
慣れている場所は、時々、正しい場所より居心地がいい。
「戻したい時もある」
優作は言った。
桐谷が少し笑った。
「そこ正直に言うの、だいぶめんどくさいな」
「うん」
「でも、分かる」
桐谷は缶のプルタブを開けた。
「変わるって、もっとスカッとするもんかと思ってた」
「僕も」
「実際は?」
優作は少し考えた。
「言葉に詰まる回数が増えた」
桐谷は笑った。
今度は、少しだけ自然だった。
「最悪じゃん」
「うん。ちょっと最悪」
「でも」
桐谷は缶に口をつける前に、少しだけ言葉を置いた。
「前より、嘘は少ない気がする」
優作は桐谷を見た。
桐谷は視線を逸らした。
「俺の主観だけどな」
それ以上、深くしなかった。
深くしないことが、今はちょうどよかった。
昼食は結局、ラーメンではなく蕎麦になった。
重くないものにしよう、と桐谷が言った。
その言い方が少しだけおかしくて、優作は笑った。
今度は遅れなかった。
午後。
補足シートの確認作業が終わる頃、美月が優作の席に来た。
「ここ、表現が少し丸いです」
優作は資料を見る。
該当箇所には、こう書かれていた。
必要に応じて、確認者を設定する。
美月はそこを指さした。
「“必要に応じて”だと、忙しい時に外れます」
優作は頷いた。
「確かに」
前なら、ここで言っていたかもしれない。
柔らかくしておいた方が現場は使いやすいから。
相手が受け取りやすいように。
でも、美月の指摘を見ながら、優作は思った。
柔らかさが必要な時もある。
けれど、柔らかさが抜け道になる時もある。
「“数字を含む資料では確認者を設定する”にします」
美月は頷いた。
「その方がいいと思います」
少し間があった。
美月が、ふと優作を見る。
「前なら、もう少し薄めてましたよね」
優作は苦笑した。
「うん」
「今は?」
「薄めたくなった」
美月は少しだけ眉を上げた。
優作は続けた。
「でも、やめた」
美月は、それ以上聞かなかった。
「そうですか」
ただ、それだけだった。
でも、その「そうですか」は、少しだけ柔らかかった。
褒めてはいない。
許してもいない。
ただ、見ているだけ。
その距離が、まだ続いていた。
夕方、補足シートが完成した。
大きな問題は起きなかった。
誰かが泣いたわけでも、怒ったわけでもない。
劇的な和解もない。
ただ、確認し、言い直し、少し止まり、また進んだ。
その繰り返しだった。
退社時間になり、桐谷が鞄を持った。
「中村」
「うん」
「今日、変な日だったな」
優作はパソコンを閉じた。
「何が?」
「いや、普通だったのに、ちょいちょい変だった」
優作は少し笑った。
「分かる」
「これ、しばらく続くのかね」
「たぶん」
「めんどくせえな」
「うん」
「でも、前みたいに戻るのも、なんか違うな」
優作は、手を止めた。
桐谷は肩に鞄をかける。
「戻ったら、また誰かが大丈夫って言うんだろ」
その言葉は軽かった。
でも、軽いだけではなかった。
優作は頷いた。
「たぶん」
桐谷は少しだけ笑った。
「じゃあ、めんどくさいままいくか」
優作は、少しだけ息を吐いた。
「うん」
「慣れるまで」
「慣れるかな」
「知らん」
桐谷はドアの方へ歩き出した。
「でも、人間だいたい慣れるだろ。良くも悪くも」
優作はその後ろ姿を見た。
桐谷の軽さは戻ったわけではない。
戻ったように見えて、少し違う形になっていた。
笑いで蓋をするのではなく。
笑いながら、蓋をしない。
たぶん、そういうことを、桐谷も覚えようとしている。
オフィスを出ると、外はまだ明るかった。
ビルのガラスに夕方の空が映っている。
雨の匂いは、もうほとんど残っていなかった。
それでも歩道の端には、乾ききらない跡がある。
完全に晴れた日にも、前の日の名残は少しだけ残る。
優作は、その跡を見ながら歩いた。
元に戻ることだけが、回復ではないのかもしれない。
変わったからといって、すぐに強くなるわけでもない。
前と同じ言葉を選べなくなって、前と同じ笑い方が少しだけできなくなって、それでも仕事をして、昼を食べて、帰っていく。
そうやって、関係は少しずつ形を変える。
壊れたのではなく。
戻ったのでもなく。
まだ名前のついていない形で、続いていく。
元に戻らないことを、壊れたとは限らない。
少しぎこちないまま続いていく関係もある。
駅へ向かう道で、桐谷が前を歩きながら言った。
「明日こそラーメンな」
優作は答えた。
「重くない?」
桐谷が振り返る。
「そこは重くていいんだよ」
優作は笑った。
今度は、遅れなかった。
前と同じ笑いではなかった。
でも、それでよかった。
晴れた日のぎこちなさは、思っていたより悪くなかった。
第40話へ続く。