「言葉にならない」は、情報です。
私は長いあいだ、自分の気持ちをノートに書き続けてきました。
モーニングページを知ってから、毎朝5時に起きてA4ノートに3ページ。
思いついたことを、ひたすら書き殴る。
書いているあいだは、確かにスッキリしていました。
頭の中でぐるぐるしていたものが、紙の上に降りてきて、頭の中が整理できる感覚。
・・でも続けるうちに、腕が痛くなりました。
肩も張る。文字が乱れて、自分でも読めなくなる。。
「書く」という行為そのものが、だんだん苦痛になっていきました。
話してみて、気づいたこと
そこで試したのが、音声入力でした。
スマホに向かって話すだけで文字になる。
手も痛くならない。これなら続けられるかもしれない。
でも実際に使ってみると、「書く」とは全然違うことに気づきました。
話しているとき、感情がダイレクトに出てくるんです。
書いているときは、感情に少し触れることを躊躇して、なんて言葉にしていいのかと・・筆が止まることがありました。
でも話すとき、特に感情的になっているとき、言葉がそのまま外に出てくる。
それは、ある意味で「書く」よりも素直な内省だと感じました。
「沈黙」も、情報だった
ただ、話していると困ることがありました。
時に感情的になって、泣きそうになる。言葉が出てこなくなる。
書いていたときも「言葉が出てこない」状態はありました。
でもそのときは「言葉が出てこない」という状態そのものを、文字に書けていました。そこからまた次の言葉につながっていた。
しかし、音声だとそれが「沈黙の空白」になる。
音声の文字起こしの中に、その空白は表現されません。
感情の詰まりや、うまく言えなかった違和感が、なかったことにされているような感覚でした。
そこで気づいたことがあります。
「言葉にならない」空白も、実は重要な情報なんだということ。
うまく言葉にできない状態、詰まる感覚、空白――それ自体が、自分の内側を映しているサイン。それを排除せず、保持したままにできるかどうかが、内省の深さを分けるのかもしれません。
感情があふれると、メタ認知が弱まる
人によるとは思いますが、一人での内省には限界があります。
感情が優位になっている時は、気持ちがダイレクトに出るからこそ、あふれたときに「自分を少し外から見る視点(メタ認知)」が弱まりやすい。
何を感じているのかを観察し続けることが難しくなったりします。
書いていても、話していても、感情の渦の中にいると、自分だけでは整理しきれない瞬間がある。
「話す相手」がいることの意味
一人の内省と、誰かに話す内省は、別物だと考えています。
誰かに向けて話すとき、人は自然と「伝えようとする意識」が生まれます。
その意識が、感情の渦の中でもわずかに「外から見る視点」を保たせてくれる。
「言葉にならない」状態をそのまま受け取ってもらえる相手がいると、その沈黙や詰まりを、なかったことにしなくていい。
急かされない。否定されない。解決策を押しつけられない。
ただ、話している自分の言葉と感情を、そのまま置いておける場所。
それが私の提供したいものです。
うまく話せなくても、大丈夫
言葉が出てこなくても、途中で泣いてもいい。
弱音も、イライラも、
何が言いたいのか自分でわからなくてもいい。
その「わからなさ」ごと、持ってきてください。
誰かの気配が欲しくなったとき、ここにいます。