季節が春から夏へ向かう気配を感じると、私はふと「そろそろキャンプの時期だな」と思い始めます。
まだクローゼットの奥に眠るギアを取り出すには早い。けれど、頭の中ではすでに、森の匂い、川の音、焚き火の温度が静かに立ち上がってくる。
我が家にとってキャンプは、一度きりのレジャーではありません。
毎年この季節から9月まで、毎月フィールドに出る。
それはもはや「趣味」ではなく、私たちの生活を整えるための 季節の構造 になっています。
■ 1. 「準備」を空想する10分間の余白
理学療法士として働き、家では父として過ごす日々。
その合間に訪れる、ほんの10分の隙間時間が、私にとっての“作戦会議”になります。
スマホで地図を眺め、ギアのスペックを調べ、次のキャンプの動線を頭の中で組み立てる。
効率や生産性を求める日常の中では、何の利益も生まない時間に見えるかもしれません。
けれど、この「未来のワクワクを滑り込ませる10分」が、私の心を軽くしてくれる。
準備を愛でることは、日常の中に小さな“非日常の入口”をつくる儀式のようなものです。
まだ何も始まっていないからこそ、可能性は無限に広がっている。
■ 2. 思考OSを、あえて強制終了させる
理学療法士という仕事柄、私は常に「最短で最適な構造」を設計しようとします。
患者さんの動作を分析し、効率よく学び、ブログを書くときも最適解を探す。
効率を求めることは、私にとって誠実さの一部です。
しかし、効率だけを追い続けると、思考OSはいつかオーバーヒートする。
情報が飽和し、景色をただ“愉しむ”という感性が鈍くなる瞬間があるのです。
だからこそ、私は毎年キャンプに向かう。
あえて「不自由」の中に身を置き、フル回転していたOSを一度シャットダウンするために。
昼間の鮮烈な緑。
夜の濃密な静寂。
焚き火の火を眺め、お湯が沸くのをただ待つ時間。
現代では最も贅沢な「何もしない」という空白が、私のOSに新しい余白を取り戻してくれる。
■ 3. 子どもたちに贈る、自然という“不自由”
家族で行くキャンプは、ソロの頃とはまったく違います。
想定外のトラブルは日常茶飯事。
効率とは程遠い「ままならなさ」が、常に隣にある。
けれど私は、その“ままならなさ”こそ子どもたちに触れてほしいと思っています。
平らではない地面の感覚。
予測できない風の冷たさ。
火の粉の熱さ。
不便な中で工夫して食べるご飯の味。
整えられた家や公園では決して得られない「自然の構造」が、子どもたちの五感を揺さぶる。
そして、薄暗いテントの中でランタンを囲んで話す時間。
家では出てこない本音や、少し大人びた視点が、ふっとこぼれる。
毎年少しずつ成長していく子どもたちと、不自由さを笑い合いながら過ごすこの時間は、私たち家族にとっての“年輪”のようなものです。
■ 4. 効率の先にある、ゆとりの構造
私は今、あらためて思います。
効率を求めることは、ゆとりを捨てることではない。
むしろ、日々を丁寧に積み重ねていくのは、
こうした「ゆとりの時間」を最大限に味わうための準備なのだと。
100点満点の効率で駆け抜ける日常があるからこそ、
0点の効率であるキャンプが、圧倒的な豊かさとして立ち上がってくる。
毎年9月までのカレンダーに刻まれる「不自由」という名の予定。
それは私にとって、人生を支える大切な“豊かさの構造”です。
実際に出発するのはまだ先。
けれど、その予感があるだけで、今日もまた一歩、機嫌よく前に進める気がしています。