第8話:抑えた想いが、ふと零れる瞬間

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距離を取ると決めたはずだった。

なのに。

その距離は、思っていたよりもずっと難しかった。

「澪さん、この資料ですが」

「はい、確認しておきます」

短いやり取り。

それだけのはずなのに、
どこかぎこちない。

お互いに、分かっている。

前とは違うことを。

(……やりにくい)

仕事に支障が出るほどではない。

でも、ほんの少しのズレが、
ずっと引っかかる。

「…少しいいですか」

昼過ぎ。

蒼さんに呼ばれて、会議室に入る。

ドアが閉まる音。

その瞬間、空気が変わる。

「最近、無理していませんか」

その一言で、

一気に心が揺れた。

「…してません」

反射的に答える。

でも。

嘘だと、自分でも分かっている。

蒼さんは、少しだけ私を見た。

じっと。

逃げられないくらい、まっすぐに。

「そうは見えません」

その言葉が、刺さる。

(……なんで分かるの)

分かってほしくなかった。

気づかれたくなかった。

なのに。

「…仕事に支障は出ていません」

少しだけ強い口調で言う。

「それは分かっています」

淡々と返される。

「ですが、それとこれとは別です」

言葉が、続かない。

沈黙が落ちる。

その静けさの中で、

抑えていたものが、少しずつ浮かび上がってくる。

(……やめて)

もう、踏み込まないで。

「…距離、取ってますよね」

その一言で、

完全に崩れた。

「……」

否定できない。

「理由、聞いてもいいですか」

優しいわけじゃない。

でも、冷たくもない。

ただ、逃げ道をなくす言い方。

「…別に、理由なんて」

言葉を探す。

でも、うまく出てこない。

(……言えない)

言ったら、終わる。

この関係も、
この距離も。

「…仕事のためです」

やっと絞り出した言葉。

「それ、本心ですか」

その一言で。

全部、揺れた。

「……」

何も言えない。

図星だった。

(……なんでそんなこと聞くの)

心の奥に触れられる。

触れてほしくない場所に。

「…違うなら、教えてください」

静かな声。

でも、逃げ場はない。

(……もう無理)

限界だった。

「……困るからです」

やっと出た言葉は、

思っていたよりも弱かった。

「…何がですか」

その問いで、

全部がこぼれた。

「……これ以上、近づいたら」

喉が詰まる。

「……困るんです」

それ以上、言えなかった。

でも、それだけで十分だった。

空気が、止まる。

蒼さんは、何も言わない。

ただ、少しだけ目を伏せた。

その沈黙が、逆に重い。

(……終わった)

そう思った。

でも。

「……そうですか」

それだけだった。

責めるでもなく、
否定するでもなく。

ただ、受け止めるように。

その反応が、

一番、苦しかった。

(……なんで)

優しくしないで。

そう思った瞬間。

ぽろっと、涙がこぼれた。

自分でも驚いた。

(……なんで泣いてるの)

止めようとしても、止まらない。

「……すみません」

慌てて顔を逸らす。

こんなところ、見せたくなかった。

でも。

「……無理しなくていいです」

その一言で、

さらに涙が溢れた。

抑えていたものが、

一気に崩れた。

距離を取っても。

抑えても。

隠しても。

もう、無理だった。

この想いは、

確実に形になってしまっていた。

続く。
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