朝の光は。
昨日の夜の涙を、なかったことにするみたいに淡かった。
澪は、目覚ましの音より先に目を覚ました。
身体は寝たはずなのに。
心だけが、まだ夢の中に置いてきたものを探している。
枕の端を指で触れる。
乾いている。
夢みたいに。
確かに濡れていたはずなのに。
朝になると、痕跡だけが薄くなる。
それでも。
胸の奥の熱だけは残っていた。
誰かの背中。
光の糸。
そして「焦らないで」という言葉。
澪は、あの言葉が不思議でたまらなかった。
慰めでもない。
命令でもない。
ただ、静かに“戻ってくる場所”を指差すような声。
洗面台で顔を洗う。
冷たい水が頬を打つ。
現実が戻る。
戻るのに。
心の中の違和感だけが、まだ残る。
スキンケアをしながら、澪は鏡の中の自分を見る。
ちゃんとしている。
いつも通りの顔。
仕事に行ける顔。
笑える顔。
でもその顔の奥に。
「自分がどう感じているか」を置き去りにしてきた年月がある。
それを、今さら拾いに行くのは。
少し怖い。
怖いけど。
拾わないと、これから先ずっと同じ違和感が続く気がした。
玄関を出る。
空気は冷えている。
駅へ向かう道に、小さな霜が残っている。
白い息が出る。
息が出るだけで、生きている感じが少し戻る。
電車に乗る。
吊り革に掴まる。
人の気配が近い。
朝の匂い。
整髪料。
コーヒー。
コートの湿り気。
澪は、無意識に肩をすくめた。
人混みは、心の膜を薄くする。
他人の波が入ってくる。
それを防ぐために、澪はいつも自分を固くする。
でも今日は。
少しだけ試してみようと思った。
固くする代わりに。
息を吐く。
吐いて、肩を落とす。
「私はここにいていい」と、心の中で一度だけ唱える。
すると。
不思議に、視界が少しだけ広がった。
人の気配が減ったわけじゃない。
でも、飲み込まれにくい。
胸の奥に、薄い膜ができたみたいに。
これは。
たぶん。
昨日の夢の余韻。
それとも。
やっと自分の感覚が戻ってきた合図。
会社に着く。
出版社のフロアは、相変わらず雑多だ。
紙の匂い。
インク。
誰かの咳。
プリンターの音。
キーボードの連打。
澪は席に着き、パソコンを立ち上げた。
メールボックスが一気に開く。
未読の数字が並ぶ。
今日も、世界が澪に向かって「処理して」と言ってくる。
澪は一つひとつ開いていく。
依頼。
修正。
確認。
会議の資料。
進行の遅れ。
いつもの流れ。
そこに。
一通だけ、空気の違うメールがあった。
件名。
「映像企画のご提案 短編ドキュメンタリーの件」。
差出人。
一ノ瀬 蒼。
澪は、マウスが止まった。
指が冷たくなる。
息が浅くなる。
名前を見ただけで。
胸の奥が、じんと熱くなる。
「……え」
声が小さく漏れた。
知らないはずの名前。
会ったことがないはずの人。
なのに、なぜか体が反応する。
澪はゆっくりとメールを開いた。
文面は丁寧だった。
挨拶。
企画の概要。
企画意図。
参考映像。
予算感。
そして。
「もしよろしければ一度、オンラインで15分ほどお時間をいただけますでしょうか」。
たったそれだけの文章なのに。
澪の心臓は早かった。
まるで、ずっと待っていた言葉を見つけたみたいに。
澪は、画面をスクロールする。
添付されたリンクを開く。
短い映像が流れた。
静かな映像だった。
余計な音がない。
余計な演出がない。
でも、なぜか胸の奥が揺れる。
人の表情の“言葉になる前”を拾うような編集。
沈黙を、沈黙のまま置いておく勇気。
過剰に説明しないのに、伝わってくる。
澪は思う。
これ、私がずっと欲しかった空気だ。
映像の最後。
クレジットに名前が出る。
制作。
一ノ瀬 蒼。
その瞬間。
澪の胸の奥に、細い糸が伸びる感覚がした。
昨日の夢の糸と似ている。
金色というより、少し青い。
夜の深い青。
静かな青。
澪は椅子の背にもたれて、息を吐いた。
心が落ち着かない。
でも、不快じゃない。
怖さの中に、懐かしさがある。
「これ、偶然なのかな」
澪は心の中でつぶやく。
偶然。
そう言ってしまえば簡単だ。
でも、偶然で片づけるには。
体の反応が正直すぎた。
澪は返信を書き始めた。
丁寧に。
でも、堅すぎないように。
「ご提案ありがとうございます。
映像、拝見しました。
とても静かで、余韻が残りました。
一度お話を伺えたら嬉しいです。
来週、火曜と木曜であれば、12時台か19時以降で調整可能です。
ご都合いかがでしょうか」。
送信ボタンを押す前に。
澪は一度だけ手を止めた。
“嬉しい”という言葉を入れたこと。
それが、少しだけ怖かった。
仕事のメールで「嬉しい」なんて。
普段の澪なら、もう少し無機質に書く。
感情を薄める。
揺れないようにする。
でも今日は。
薄めたくなかった。
昨日の自分を裏切りたくなかった。
澪は送信を押した。
画面の右下に「送信しました」と出る。
それだけのことなのに。
胸の奥が少しだけ明るくなる。
そのとき、スマホが震えた。
玲奈からの着信だった。
昼休み。
澪は会議室の隅で電話に出る。
玲奈の声は、相変わらず現実的で温かい。
「おはよ。
昨日の澪、なんか抜け殻だった。
大丈夫?」
澪は少し迷って。
でも、言った。
「同じ夢を見た。
三日連続で。
変な夢。
誰かの背中が出てきて。
光の糸が伸びてきて。
焦らないでって言われるの」
電話の向こうで、玲奈が一瞬黙った。
そして、ふっと笑った。
「え。
なにそれ。
怖いっていうより、ちょっと…物語みたい」
「私もそう思う。
でも変なの。
起きても残る。
胸が熱い」
玲奈は声のトーンを少し落とした。
真面目になる時の玲奈だ。
「澪さ。
今までずっと頑張ってきたじゃん。
ちゃんとすることで生きてきたじゃん。
でも、ちゃんとしてるだけだと心って干からびるんだよね。
夢ってさ、心の乾きに水を入れる時がある。
変だと思っても、否定しなくていいと思う」
澪は、胸の奥がじんとした。
否定しなくていい。
その言葉が、少し救いだった。
「それでね」
澪は続けた。
「今日、変なことがあった。
企画のメールが来たの。
映像企画。
差出人の名前が…一ノ瀬蒼」
玲奈が「え」と言った。
澪の声が揺れているのが自分でも分かった。
「その名前、知らないんだよね?」
「知らない。
会ったことない。
でも、名前見た瞬間に胸が熱くなった。
体が先に反応する感じ」
玲奈はしばらく黙って。
それから、少しだけ柔らかく言った。
「それ。
恋じゃない?
って言いたいところだけど。
澪の場合、恋っていうより“回復”の入口かもしれない。
誰かに会う前に、澪が澪に戻る入口」
澪は、少し笑った。
玲奈らしい言い方。
現実的なのに、ちゃんと心を見ている。
「回復の入口か」
「うん。
あとさ。
会ってないのに反応するのって、怖いじゃん。
でも怖いからって閉じたら、また同じループだよ。
澪はいつも、分かるまで動かないでしょ。
分かってから動くんじゃなくて。
動きながら分かるパターンもあるからね」
澪は黙った。
図星だった。
分かるまで止まる。
それが澪の癖だ。
安全のための癖。
でも、その癖が、澪の人生を狭くしてきた。
「今度、会うことになりそう」
澪が言うと。
玲奈は即答した。
「いいじゃん。
ただし、追わないでね。
盛り上げすぎないでね。
澪は期待すると苦しくなるから。
淡々と、でも丁寧に。
それがいちばん可愛いから」
「可愛いとか言わないで」
澪は笑った。
笑いながら、少しだけ涙が出そうになった。
電話を切る直前。
玲奈は言った。
「澪。
本音が分からなくなるのって。
本音がないからじゃないよ。
本音を守るために隠してきたからだよ。
だから、今から取り戻せる。
焦らないで」
焦らないで。
玲奈の口から出たその言葉が。
昨日の夢の言葉と重なる。
胸が少し熱くなる。
午後。
仕事をしながらも、澪の意識はどこか柔らかかった。
いつもなら、タスクに潰されて自分の感覚が消える。
でも今日は。
感覚が消えない。
夕方。
澪のメールに返信が来た。
一ノ瀬蒼から。
「ご返信ありがとうございます。
映像をご覧いただけて嬉しいです。
火曜の12時半でお願いできますでしょうか。
オンラインのリンクをお送りします」。
澪は息を止めた。
嬉しい。
その言葉にまた反応する。
自分の中で何かが結び直されるみたいに。
澪は返信を打つ。
「承知しました。
火曜12時半、よろしくお願いいたします」。
送信して。
画面を閉じて。
澪は椅子に深く座り直した。
会う。
まだ会ってない。
でも、会う予定が立った。
それだけで、世界の輪郭が少し変わった。
帰り道。
夜の駅のホームで、澪はふと空を見上げた。
雲が薄くて、星が見える。
冬の星は、遠いのに鋭い。
澪の中で、昨日の夢がまた浮かぶ。
星が近かった夜。
背中。
糸。
焦らないで。
澪は、胸に手を当てた。
そして、心の中で言った。
「焦らない。
でも、逃げない」
その瞬間。
胸の奥の青い糸が、ほんの少し太くなる感覚がした。
気のせいかもしれない。
でも、澪はその気のせいを大切にした。
家に帰る。
部屋の灯りをつける。
静けさが戻る。
澪はノートを開いた。
久しぶりだった。
日記でも、仕事のメモでもない。
ただ、自分のための紙。
そして一行だけ書いた。
「今日、胸が熱くなった。
名前を見ただけで」
それだけで、少し落ち着いた。
書くと、心が自分に戻る。
これが“整える”ということかもしれない。
ベッドに入る前。
澪はスマホの画面を伏せた。
見ない。
追わない。
でも、閉じない。
それが、澪が選んだ新しい運用ルールだった。
目を閉じる。
眠りが来る。
今夜、夢を見るかどうかは分からない。
でも澪は知っている。
もう、何かが始まっている。
正解がない場所に。
一歩だけ置いた。
それが偶然でも。
必然でも。
澪にとっては、同じだった。
続く。