“今”死にたいあなたへ―「一日だけ“明日”まで生きてもらうために」

“今”死にたいあなたへ―「一日だけ“明日”まで生きてもらうために」

記事
コラム
 初めましてこんにちは、世界の片隅でメンタルカウンセラー等をしている倉澤ちえです
 現在はオンラインで、悩みや生きづらさ、誰にも言えない気持ちを抱えた方のお話を伺う活動もしています。
 今回は、今、まさに生命の岐路に立っている方に向けた発信をしたいと思います。
「死にたい。」
 このたった一言を、本当に生命を投げ出す覚悟を持ってそれを思う・言う方の、その時の、しんどさと勇気と失望・絶望感は、経験者にしかわからないと思います。
 そして、今そう心底思っている方と、実際に仮に昨日それをしまった方との心境の差異は、紙一重であり、むしろ昨日どうにか踏みとどまって今生きている方が、今日それを投げ捨てるきっかけも、本当に些細なことで十分にその道を選ばせるに足るものでしかないと思います。
 だから、私は「死なないでください」とは言えません。
 理由は大きく2つです。まず、私自身が、希死念慮が強い状況で10数年過ごしてきて、「死なせてくれ」と何度も自殺未遂を計ったのに救命されたことに、感謝どころかただただ迷惑さだけを覚えた過去があるからです。
 もう一つの理由は、私に、今画面の向こうにいるであろう、あなたの人生の責任はとれないからです。そして、もちろん物理的・精神的な苦しみを肩代わりすることも不可能です。
 だから「死なないでください」なんて軽率なことは、言いませんし、言えません。
 ただひとつ言えるとしたら、「それほどにきつい心境に追いやられる形でもし誰かが命を捨てることが在るならば、私はそれが悲しい」。
 私は、たぶんこの文章を読んでいるほとんどの方にとっての「他人」でしょう。
 ですが、「死にたい」という強い思いの経験者としては、少しだけ「分かり合える」可能性を持っているかもしれません。
 例えば「死にたい」という思いに耐えて耐えて耐えて、先に必ずいつかはしあわせが見つかるから、なんて不確定なことも言えないですし、「今日」耐えて死なず「来年の今日」もう無理で死を選ぶ誰かに取って、その一年に苦痛しかないかもしれないです。
 ただ、ひとつだけ、私に分かっていて、画面越しで「死にたい」と蹲っているあなたが気付いていないことがあるかもしれません。
 あなたは、「どうしても今すぐ死にたい」わけではないのです。
 もしそうなら、ネットを開いてこんな世界の片隅のnoteを読むようなことはなく、目もくれないで首をくくったりしているはずだからです。
 今死にたい気持ちに支配されながらスマホやパソコンでこれを読んでいるあなたは、もしかしたら1mmだけ、「何か」を求めているのではないでしょうか。だから、検索をかけたり、ネットをさまよったり、しているのではないでしょうか。
 それが何なのかは、人によると思います。「救済」や「希望」、「赦し」かもしれませんし、「共感者」や「仲間」、「同じ心境にいる誰かの事情」であったりするかもしれません。もしくは、単に「死に方」や「死に場所」、「楽な死に方」なのかもしれません。
 けれど、どうしても今すぐ死ななければならない程ではないはずです。あなたは今、恐らく崖っぷちから下を見下ろして、もしかしたら「あの岩に当たったら痛いだろうな」とぼんやり思っているのかもしれませんが、決してまだ落ちる最後の一歩は踏み出していないはずです。だから、「今」があるからです。
 ならばせめて、「今日」だけを生きてみる選択を、してみませんか。
 「死にたい」気持ちを、明日に持ち越してみることは、できませんか。
 そして、「死にたい」ともし今思っているならあなたは恐らく崖っぷちにいるのでしょう。そのことも理解せず前に進めと、言ってくる人もいるのかもしれません。あるいは後ろは過去だから、戻れないと思うのかもしれません。後退は、敗北に似ているように見えるかもしれません。
 でも、背後にはただ過去の貴方の昔頑張った足跡が残っているだけの場所で、後退しても全然構わないと私は思うのです。あなたが残した足跡の場所こそが、いくつもない安全な場所であるかもしれないと思うのです。なにしろ、そこは一度は踏みしめている場所なのですから。
 崖を見詰めたままで構いません。ただ一歩だけ、そのまま背後に下がってみませんか。
 崖を見るのがきついなら、その場所から振り向いて、今まであなたが頑張って歩いてきた足跡を、もう一度見つめてみる時間は作れませんか。
 それすらもきつければ、立ち止るだけでもよいのです。崖の前で、立ち止まって、少しでも歩き疲れた心と身体を労わってみることはできませんか。できることなら、その場でいっそ座って休んでみることも、選択肢に入れられませんか。
 人間ひとりに、できることは本当のところ多くはないです。
 もしあなたが多くを求められて疲れているのなら、それはむしろ自然な事です。
 そして同じように、私にできることも、多くはない。
 ただ、こうして同じ、いえ、恐らくどこか近い感覚で長期間苦しんできた私の文章を、今あなたは読んでくれている。私はそれが、この上なく嬉しい。たとえ読んでいる感想が、きれいごとに見えるという批判だけだとしてもです。
 何故なら少なくとも、読んでいる間の貴方は、生きてくれている。そして、明日も生きることを、選択肢に入れてくれている。
 繰り返します。私にできることは多くはない。ですが、疲れたあなたの近くに、そっと白湯を置いたり、小さな腰掛を持ってきて、座ってみませんか、と声をかけることくらいのことをあなたが拒否しないなら、私はそうしたい。
 だから、あなたにそれを受け取るだけのちからがまだあるなら、温めた白湯と、それを飲むための場所くらいなら、私は用意したいと思います。
 支離滅裂でも、罵倒でも、理不尽な経験の羅列でも、親身に聞く用意はできています。
 あなたに対してなにかが出来るとか、何かを解決してあげるとか、そんな自惚れはありません。けれど、一緒に頭を悩ませることなら、私にもできます。
 極度の苦しみを抱えている人には、真面目な人が多いです。いい加減な人なら、そこまで苦しくなる前に、適当に放り出すことができるからです。だから、私は苦しんでもまだ生きている人を尊敬します。そうしているのは、本当に大変な時間だと、実体験として知っているからです。
 そしてもし、今すぐでなくても、誰かに話をしてみようと思える日が来たなら。
 どうせ無駄だろうと思いながらでも構いませんし、半信半疑でも構いません。もしその時に私のことを思い出して頂けたなら、私はあなたのお話を伺います。
 あなたに対して何かを解決してあげられる、などという自惚れはありません。けれど、一緒に頭を悩ませることならできます。
 何も受け取りたくないなら、それでもよいのです。私は白湯と腰掛を用意して、ただあなたの言葉を聞き、その苦しみをできる限り受け止めます。
 そうすることで明日のあなたが、明後日も生きてみようかなと思えたなら。
 その時は私が、まだ希死念慮を捨てきれない私こそ、少しだけ私自身もまだ生きてよいのではないかと、あなたに救われるでしょう。


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