最近、改めて気づいたことがあります。
かつての私は、四六時中「時間がない」と言い続けていました。
それは決して、いつでも体が壊れるほど働いていたわけではありません。
むしろ健康で、動こうと思えばいくらでも動けるはずなのに、自分に対しても周囲に対しても、まるでバリアを張るように「忙しい」という言葉を口にしていました。
友人からの誘いを断る時、新しい挑戦を先送りにする時、そして鏡の中の自分と向き合いそうになる時。
私は「忙しさ」を盾にして、何かから必死に逃げ回っていたのだと思います。
今ならわかります。
あの頃の私にとって、「時間がない」という状態は、この上なく「都合の良い場所」だったのです。
1. 麻薬としての「役割」
「忙しい」という言葉は、人生の根本的な問いから目を逸らすための、最強の麻薬でした。
仕事のタスク、親としての責任、社会的な役割。
それらの台本通りに動いている間は、「自分は何者で、本当は何をしたいのか」という、答えのない問いに向き合わずに済みます。
スケジュールを埋め尽くすことは、一種の依存症に近いものでした。
役割に没頭している間は、自分が「歯車」になれます。
自分の意志でゼロから何かを生み出す苦しみや、何もしない自分に価値があるのかという不安を、忙しさが綺麗に塗りつぶしてくれていたのです。
2. 自由という名の、真っ白な恐怖
なぜ、そこまでして「忙しさ」にしがみついていたのか。
それは、「自由」が怖かったからに他なりません。
もし時間がたっぷりあったら、言い訳は一切通用しなくなります。周囲に対しても、自分に対しても。
「時間ができたらやりたかったこと」が、もし時間ができても形にならなかったら。
そのとき突きつけられるのは、環境のせいではなく、自分自身の才能や情熱の欠如という残酷な事実です。
空白という名の裁判場に放り出され、自分の「底」が見えてしまうのが、私は何よりも恐ろしかったのだと思います。
3. 命の前借り、その代償
ですが、この麻薬は使いすぎれば命を削ります。
「役割」を完璧にこなそうとするほど、自分が何に心動かされ、何を面白いと思うのかという「個」のセンサーは麻痺していきます。
それは、健康なまま、どこか死んだように生きることに等しい状態でした。
体が悲鳴を上げて強制終了がかかるのは、ある意味で、心が「もうこの麻酔はやめろ」と引き戻そうとする最後の防衛反応だったのかもしれません。
4. その先にあるもの
今は、もうあの頃のようには思いません。
正直、「人生に向き合う」というのは、決してキラキラした自己啓発のような話ではありません。
もっと泥臭くて、ザラついた手触りのものです。
自分は自由が怖い、臆病な人間なのだと、優しさなど介さずに認めるところからしか、本当の時間は始まらないのだと痛感しています。
だから私は、あえて「空白」に身を置くことにしました。
多くの役割を脱ぎ捨て、ただ「生きているだけの塊」として座ってみる。
そこで湧き上がる焦りや恐怖を、紛らわさずにそのまま眺めてみる。
その地獄のような静寂の先にしか、自分自身の本当の声は響いてこない。
「忙しい」という安息地を捨てた今、ようやく私は、自分の人生のハンドルを握り始めている気がします。
そして、その先に本当の安息を感じ始めています。