今でも、時々夢に見る夜があります。
雨が降っていました。冷たい春の夜。傘を忘れた私は、駅から店までの道を濡れたまま歩きました。靴の中はびしょびしょで、足元から体温が奪われていくのを感じながら、もう今日はお客さんも来ないだろうと決めてかかっていたんです。
だけど、あの人は現れました。
店の戸が、少し乱暴に開いたんです。ドアベルの音も、あの時はやけに大きく響いたような気がします。黒いパーカーにジーンズ、髪はぐしゃぐしゃに濡れていて、目元が真っ赤で――でも涙ではなかった。怒りと、絶望が混ざったような、そんな表情をしていました。
「死ぬ前に、一回だけ誰かに訊いてみようと思って」
そう言って、椅子に座った青年。歳は私よりひとまわり以上若く、話し方もどこかぶっきらぼうでした。彼の手には、スマホと小さな遺書のようなメモが握られていました。
私は、一瞬にして、体の奥の空気が冷たくなったのを覚えています。
「今日、死ぬつもりだった。でも、駅で目の前を通り過ぎた人が、おばあちゃんに“もう少し生きてみようね”って言ってたのを聞いて、なんか…」
彼の声は震えていました。だけど目は真っすぐで、こちらを試すような鋭さがありました。
あのとき私は、カードも水晶も、何も手にしませんでした。代わりに、こう聞いたんです。
「名前を教えてくれる?」
「達也。加藤達也です」
名前を聞いて、私は一瞬だけ目を閉じました。占いは道具だけでやるものじゃない。言葉と、相手の呼吸と、表情と――なにより、今ここにある“心”の交信でしか、救えない未来もあると、私は信じていたから。
「達也さん。今、あなたの未来はまだ“選べる場所”にある。でもそれは、もう何度も崩れかけた道で、そのたびにあなたは、なんとか踏みとどまってきた。違いますか?」
「……なんで、そんなことまで分かるんだよ」
私には、彼の過去も、家族との確執も、恋人との別れも、職場での挫折も、なにも視えてはいなかった。
ただ、彼の“手”が教えてくれた。
あの手は、何度も拳を握りしめてきた。怒りを抑えるために、涙を我慢するために。
あの手は、何度もスマホを握って、助けを求めようとしたけど、誰にも送れなかった。
そういう“重み”を、私は感じたのです。
私は一枚のカードを彼に渡しました。
それは「塔」の逆位置――破壊の先にある再構築、という意味のカード。
「今、あなたの人生は壊れたように見える。でもこれは、壊すために壊れたんじゃない。 “建て直すために崩れた”んだと、私は思います」
その言葉がどれだけ届いたのか、当時の私は分かりませんでした。
彼はしばらく沈黙し、そしてゆっくりとメモを破りました。
びりびり、という音が、小さな部屋に響きました。
「俺、なんで泣いてんだろ」
そう言って笑った達也さんの顔が、やけに幼く見えて、私はそっとカーテンを閉めました。
春の雨は、まだ止む気配がありませんでした。
あれから2年。
ある日、1通の手紙が届きました。
結婚式の招待状でした。
差出人は――加藤達也さん。あの夜、死の淵から戻ってきた、あの青年でした。
手紙には、こう書いてありました。
あのとき、あなたが“占い”じゃなくて“人間”として向き合ってくれたこと、一生忘れません。
俺が生きていることが、あなたへの最大の恩返しです。
式で読み上げたいから、あのとき渡してくれたカード、持ってきてください。
占いは未来を当てることじゃない。
未来を、 “もう一度信じてみよう”と思わせる力なのだと、私は今でも思っています。
そして、あの夜のように、ひとりでも多くの人に、そう思ってもらえる瞬間を、私は今日も探しているのです。