寝ている間にも呼吸ができること。

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「諸法無我」。これは「あらゆる事物は常に変化している為、形を変えないものなどどこにもない」という意味の仏教の大切な教えです。

この「俺」という存在も変わり続けているため、この「俺」だったり、「我」だったりはどこにも存在しないということを述べているのです。

今「俺だ」と思っているこの「俺」は、理屈上1秒後には変化している。そのようなものを果たして本当に「俺」と呼ぶべきなのかということですね。

この世界に形を変えないものなどどこにもない。この世界のあらゆるものは常に変化を続け、定義に収まるところを知らないわけです。

その一方で形を変えないものが1つだけある。それが先ほどから登場している「俺」という自我、つまり人間の概念です。

繰り返しになりますが、我々人間の体に至っても、毎秒確実に歳をとっているわけです。

その「変化すること」自体が、真実のあり方でもあるわけです。逆に言えば変化しないものが仮にあるとしたらそれは実存しているものではなく、空想の、あるいはまやかしの存在だということでもあるわけですね。

この「自我意識」、あるいは概念というのは一向に変わりません。常にそこに延々と止まっている。だから常にこの「俺のこと」を紛れもなく「俺だ」と思ってしまうわけです。

概念は変化しません。

それ以外を除く、この世の全ては変化をします。この私も変化し続けており、従ってこれは私のものではなく、また私という存在でもないのです。

例えば、

「なんだ今日のご飯もお茶漬けか、味気ないなぁ。」

このように思ったとします。実際に毎日味気ないご飯が出されると、このように愚痴をはきたくなるのが我々です。

しかし味気ない食事だとしても「喉元」を過ぎたならば胃袋は「無条件」で、「生き詰まりなし」に、消化をしてくれます。

高級なフランス料理だとしてもそうです。

どんなものが喉元を過ぎて入ってきても、分け隔てなくちゃんと消化をしてくれる。それが我々の命なのです。

さらに我々が寝ている時でも、その食べたものをしっかりと消化してくれます。また同じように、寝ている時でも、どんな時でも、この体は休まずに「呼吸」をし続けてくれています。

我々人間は「自我」で生きているわけではないのです。「自我」で呼吸をしているわけではない。「自我」で消化をしているわけでもないのです。

「自我」というのは生命活動にとって、命と何の関係も持っていないんですね。これは単なる認識に過ぎないのです。

私という存在は、「私」ではない。「自我」でも「概念」でもないということなのです。

だからこうしてさまざまな場所からやってきた、色々な空気を吸い込むことができる。さまざまな場所で育った農作物を口にすることができる。そしてそれを消化することができるのです。

それは私の命に「境界線」は一歳引かれていないからです。

我々の本来の「在り方」、つまり我々の生きている「事実」は全て、「道本円通」です。そこに生き詰まりがあったり、偏りがあるという事は一切あり得ず、「完全」であり、常にひらけた世界です。

曹洞宗をお開きになった道元禅師は「普勧坐禅儀」という書物の中で

「争か修証を仮らん。」

とおっしゃっております。

これは「今から修行を一生懸命頑張って、その結果として理想的な人物になろうという事は、おかしなことだ」ということです。

そんなことはナンセンスであるし、なんとしても悟りをひらこう等という考えじたい、実に滑稽なことであるというのです。

何故なら先ほども述べたように、すべては「円通」だからですね。悟るべきものなどそもそも何もなく、もしあったとしたならそれは個人の単なる願望で、それは本当の悟りではないからです。

「修行」をして「悟る」のではなく、「悟り」を実践する。

これが道元禅師が強くおっしゃることで、道元禅師のおすすめになる「坐禅」です。曹洞宗における「坐禅」の有り様です。

この坐禅を行い、今すぐにでも完全無欠のひらけた世界、そこを生きてくださいよと。

それこそまさに「悟り」であると。

ですから坐禅は「仏の行」と呼ばれ、

一寸坐れば一寸の仏

とも言われるのです。

この世界は常に悟りの世界であるから、その世界に自分をひたす。ざるで悟りを得ようとするのではなく、ざるを元の仏の水に浸せと。

「坐禅」をしていると誰でも彼でも足が痛くなってくる。これこそ円通です。いきつまりがない、真実むき出しの証拠です。世界のどこを探してもこの坐禅を組んで足が痛くならない人物はいない。

そんな命を我々は生ている。坐禅が我々の「御命」そのものなのです。
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