これは私がある友人のお寺に遊びに行った時の話です。
あれは確か、高校生1年生くらいだったと思います。
その友人のお寺で「坐禅合宿」があるというので、そのお寺に泊まりにいったんですね。
それはもうかなり山奥のお寺でした。
遊びに行った友人たちみんなで「坐禅」をして眠りにつくわけです。
そして朝起きて、また「坐禅」をするんですね。
明る日の早朝にも坐禅をしていた時、友人の父親であり、そのお寺の住職がその「坐禅」の中である提唱をされたんです。
その中で、
「羅籠未だ至らず。(らろういまだいたらず)」
とおっしゃるんですね。
「羅(ら)」は、鳥かごを意味し、「籠(ろう)」は魚をとらえるかごを意味します。
なので「らろう」はどちらもカゴを意味するんですね。
要するにその住職は、
魚を捕る籠や、鳥を捕る籠などで、捕まえることが出来ない「命」を我々は生きているんだ。
という風な内容のことをおっしゃるわけなんですね。
ここでいう「羅籠(らろう)」というのは、「人間の価値判断」を表しています。
これは今だからこそ改めて気づく部分ではありますが、本来この世界に鳥籠はありません。
皆絶対自由です。その自由というのは概念の話ではなく、無条件に腹が減る。無条件に呼吸ができる。無条件に耳に何か聞こえる。今そこで足を組めば痛い。いつでもどこでもこうした命をいただいているということです。
しかしそうだと思えない。自由とはなんだか綺麗なビーチで仕事もせず、大好きな音楽をかけながらお酒も嗜みながら、過ごせる時間のように思っている。
そうではないんですね。本当の自由とは。
本当の自由とは今、ここ、この命です。そこに我々の生命の源、全てが含まれるからです。そこにおいて、生命活動の全てが果たされているわけですね。
そしてこれからも約束されているわけです。すべての命が。すべてのことが。
あらゆる出来事に対してはこの「命」しかありません。仮に煌びやかなビーチでお酒を飲むにしても、その体と命がないとできないわけです。そんな体を、命を今こうしてすべていただいている。
そこにおいては死ぬまで生きられるし、痛ければ痛い。こんなにも自由なことはありません。今、ここ、この命において誰もが例外なく自由であるわけです。
「羅籠未だ至らず。(らろういまだいたらず)」
これは我々の「命」は、人間の価値判断や思惑、人間の寸法によって捕まえることが出来ないという事なんです。
本来「大自然」というのはそういうものですよね?
人間の価値判断や思惑、人間の寸法によって捕まえることはとてもできません。
地震は予期せず起こるし、いきなりカラスの鳴き声が聞こえてくる。気づけば夕方となり、また明日がやってくる。
人間の常識など大自然には通用しないし、常にその常識を上回ってきます。頭で考える自由とは全然自由じゃないなんですね。それはむしろ囚われているのです。
今ここ、この坐禅、この俺。そここそが絶対自由なのです。
人間の思惑は一切入り込むことが出来ない命を私もあなたも生きているんです。
幼いながらそれまで私は「坐禅」をすれば、精神が研ぎ澄まされて、何か凄い必殺技でも使えるようになるんじゃないかと思っていたんですね。
しかしそういう私を見越してか、友人の父であり、そのお寺の住職は、
お前たちの「命」というのは誰一人例外なく、「羅籠(らろう)未だ至らず。」そういう「命」を常に生きているんだぞ。
という話をされたんですね。自由とはそういうことか!と思ったわけです。
当時の私もそうですが、世の中の人間というのは皆、その「羅籠の中」へ知らず知らずのうちに自分から入っていってしまっているんですね。
みんな自分だけの価値判断を持ち、またどこかで他人から評価をされたり、価値判断を付けられながら生きているんです。
また会社では給料で差を付けられたり、学校では成績で差をつけられたりと、人間社会においてはほとんどこうした価値判断によって評価がされてしまいます。
しかし我々の「命」、我々が生きている「生命の実物」、この生命の事実というのは「羅籠(らろう)」に捕らえられるような余地は一切ないんだぞというような事を当時教えたもらえたんですね。
道元禅師の「坐禅」というのはまさにこの「羅籠未だ至らず」の「坐禅」なんです。
ただひたすらに「生命の実物」を行じているんです。
頭をよくするために「坐禅」をするのではない。
悟りをえるために「坐禅」をするのではない。
ただひたすらに「生命の実物」を行じるから、生命の真実を行じるから「正伝の坐禅」なんです。
大自然そのものを行じているわけです。この世の全てを行じているわけですね。
我々の命というのは「人間の価値観」や「思い」が、「物差し」が、「寸法」が「評価」が、一切至らないものです。