昔、「鈴木大拙」という有名な仏教学者がおりました。
「釈宗演」という臨済宗の僧のもとに就いて学び、真実に目覚められました。
またこの方は1870年から1966年までの生涯を全うされた方で、大正から昭和にかけて活躍した臨済宗の「仏教学者」です。
「禅」についての著作を英語でしるし、日本の禅文化を世界に広く知らしめたお方でもあります。
近代日本の最大の仏教学者とも称されるお方なんですね。
そんな有名な「鈴木大拙」という方がある言葉を残されました。
それが、
「肘外に曲がらず」
というものです。
これは「何が本当の自由ですか?」という質問に対して、この「鈴木大拙」氏がお答えになったものです。
「肘」というのは人間の体の重要な部分で、人間活動において大切な役割を担っている部分です。
何かを持ったり、何かを押したり引いたりする際に重要となる機能であるわけですが、その肘を「内側」に引っ張ることで腕の本来の活動を支えられるわけです。
肘の関節というのは内側に曲がる仕組みになっており、決して「外に曲がらない」仕様になっているわけですね。
内側にしか引っ張れないというのは人間の「共通の仕組み」として約束されていることなんです。
必ず肘の関節は内側に動く。外側には決して動きません。
この「鈴木大拙」氏に言わせると「肘外に曲がらず、これが本当の自由である」と言うのです。
どういうことか?
我々は自分の頭で考えると、「自由」というのはなんでも出来ることが「自由」だと思ってしまう。
例えば、空を飛べたり雲に乗っかれたり、仕事に行かなくて済んだり。
そういうものを「自由」と考えるわけです。
しかし「鈴木大拙」氏が言うには、「肘外に曲がらず、これが自由自在である」というんですね。
仮に「肘」が365度、外側にも内側にも縦横無尽にクルクル回ってしまったらこれは本来の「腕」ではなくなってしまうんです。
肘の役目を果さなくなって、腕の活動を機能させられなくなってしまう。そうなると不要なものとなってしまう。
肘が外に曲がらないおかげで我々は人間活動を全うできるわけです。
我々は自分の頭で考えると、自由というのは「何でもありの、何をしてもいい」という発想になってしまいます。
極端に言えば「人を殺しても自由だ、俺の自由だろ。」という風にいつも自分を、俺をっていうのを中心にして物を考えた自由が本当の「自由」と錯覚してしまう。
しかしそういったものは単なる「発想」であり、「概念」にしかすぎません。
元を辿れば肘が曲がらない、こういった絶対的な約束があるおかげで我々はそういった「発想」や「概念」を持つことが出来るのです。
つまり「肘外に曲がらず」これが本当の「自由自在」であるというわけなんですね。