過去の体罰教師はなぜ謝罪しないのか? 〜「指導」と「暴力」のあいだで〜
かつて日本の学校では、教師による「体罰」が日常的に行われていました。殴る、叩く、蹴る、怒鳴る…。現在では体罰は法律で禁止され、教育現場でも問題視されるようになっていますが、一昔前まではこれが当たり前の風景でした。
ところが最近では、過去の体罰がSNSなどを通じて明るみに出て、処分を受ける教師も出ています。ここで浮かぶ疑問があります。それは、**なぜ過去に体罰を行っていた教師たちは、自ら謝罪しようとしないのか?**ということです。
また、それと同時に気になるのが、マスコミや教育評論家たちが、過去の体罰について掘り下げた検証や特集をほとんど組まないという現実です。これについても後ほど詳しく触れたいと思います。
■ 体罰が正当化されていた時代
昭和から平成初期の教育現場では、体罰はむしろ「愛のムチ」として美化されていました。熱血教師が生徒を殴る姿は、テレビドラマの定番でもありましたし、実際に「うちの子は叩かれて当たり前」と言う保護者も少なくなかった。
つまり、当時の教育文化そのものが体罰を肯定していたという事実があります。そうした時代に教壇に立っていた教師たちにとって、自らの行為を「悪かった」と認めて謝罪することは、自分の教育人生そのものを否定することにつながりかねません。
そのため、「謝らない」のではなく、「謝れない」のが実情なのかもしれません。
■ マスコミが体罰問題を深掘りしない理由
ここでさらに気になるのが、マスコミの態度です。体罰事件が起きればニュースにはなりますが、「過去に体罰を行っていた元教師」に焦点を当てたドキュメンタリーや特集は、ほとんど見かけません。
これはなぜなのでしょうか?いくつかの理由が考えられます。
◇ 1. 加害者の声を扱うリスク
社会的に「体罰=絶対悪」という認識が広がるなかで、加害者側の教師の声を取り上げると、「被害者の気持ちを無視している」「加害者に発言の場を与えるな」という批判が出やすいのが現状です。
マスコミとしては、炎上や抗議を避けたい気持ちが強く、リスク回避のために取材を控える傾向があります。
◇ 2. 教育界との関係
新聞社やテレビ局は、文部科学省や教育委員会、学校関係者などと日常的にやり取りがあります。もし過去の体罰問題を掘り下げると、教育界との関係が悪化し、情報提供や取材協力を受けにくくなる可能性があります。
つまり、「波風を立てたくない」という忖度的な判断もあるのです。
◇ 3. 視聴率や話題性の問題
過去の教育問題、特に加害者側の証言は、テーマとして暗くなりがちで、視聴率やネット記事のPV(閲覧数)も伸びにくい傾向があります。そのため、メディアとしては**「重すぎる」「受け手が少ない」と判断して敬遠しがち**です。
◇ 4. 社会全体が「思い出したくない」
もっと根本的には、社会全体が「過去の体罰」というテーマに対して無意識にフタをしているのかもしれません。
・自分も体罰を受けたが、「それを認めたくない」
・親や祖父母が教師だったが、体罰をしていたかもしれない
・今更そんなことを掘り返しても意味がない、と思いたい
こうした心理が複雑に絡み合い、マスコミもそれを感じ取って“触らぬ神に祟りなし”の姿勢になっているのではないでしょうか。
■ では、どう向き合うべきか?
体罰は、いかなる名目でも許されるものではありません。しかし、過去の体罰を「一方的に糾弾する」だけでは、再発防止や教育の改善にはつながりません。
私たちに必要なのは、過去を責めることではなく、過去から学ぶことです。
そのためにも、元教師が勇気を出して「当時の自分の行為は正しかったのか?」と振り返り、語ってくれるような場が必要です。そして社会はそれを**「理解と対話の材料」として受け入れる土壌**を育てていく必要があります。
そして、メディアにも、ぜひその役割を果たしてほしいと思います。