「歴史を学んでいる」「デザインを学んでいる」と言うと、たまに返ってくる質問がある。
「へえ、で、それって何の役に立つの?」
わかる。悪気はない。むしろ実務家として、真っ当な問いだ。仕事に効くのか、年収が上がるのか、資格になるのか。
でも、正直に言うと、僕はこの問いに真剣に答えようとしたことがない。「好きだから。それ以外に理由がない」。それだけだ。
最近、この身も蓋もない一言の中にこそ、リベラルアーツの本質が隠れていることに気づいた。
最近、この身も蓋もない一言の中にこそ、リベラルアーツの本質が隠れていることに気づいた。今日はそのことについて、キャリアとの関係性も紐づけて話してみたい。
リベラルアーツ=「自由人の技術」
リベラルアーツは、ラテン語の artes liberales。直訳すると「自由な人間の技術」だ。liber(リベル)は「自由」を意味する。liberty も liberal も、ここから生まれている。
古代ギリシャ・ローマでは、学問がざっくり2つに分かれていた。
自由7科(artes liberales):文法・修辞・論理/算術・幾何・音楽・天文。自由な市民が身につけるもの。
非自由人の技術(artes serviles):手を動かして何かを生み出す技術。不自由な身分の人が担うもの。
ここで大事なのは、分類の”基準”だ。
「その技術が役に立つかどうか」ではない。
「それを学んだ人間が、自由になれるかどうか」で分けられていた。
自由な市民は、自分の頭で考え、判断し、議論し、他人に騙されず、自分自身を統治しなければならなかった。そのためのOS(頭の基本ソフト)がリベラルアーツだったのだ。
つまりリベラルアーツは、最初から「役に立つから学ぶもの」ではなく、「自由になるために学ぶもの」だった。
学問は、いつから「役に立つため」のものになったのか
実はこの構造、日本の教育の歴史でも繰り返されてきた。
明治時代、日本は近代国家をつくるために、教育を総動員した。学問は「富国強兵・殖産興業(国を豊かにして軍事力をつけ、産業を興す)」という国家目標のための手段に組み込まれていく。
そこに重なったのが、「立身出世主義(りっしんしゅっせしゅぎ)」。学問を身につけて出世する、という当時流行った価値観だ。学ぶことは、個人の好奇心の発露ではなく、「お国のため」、そして「自分の社会的成功のため」の手段へと変わっていった。
これ、現代にもそのまま形を変えて続いている。
今、学ぶことの多くは「社会に適応するために必要なこと」という枠に収まっている。資格、スキル、市場価値。全部、「社会や会社という枠に、どう適応するか」が出発点になっている。
「これが好きだから」「これに興味があるから」という理由だけで学ぶこと。そして、その個性がそのまま尊重されること。そういう教育は、いつの間にか隅に追いやられてしまった。
これはまさに、「非自由人の技術」の現代版だ。国のため、社会のため、会社のため。行動の動機がずっと外部にある、という構造は、明治から令和まで、何も変わっていない。
「役に立つか」を気にした瞬間、人は不自由になる
ここに、強烈な逆説がある。
「これは何の役に立つんですか?」一見、真っ当な問いに見える。でもよく考えると、これは学ぶ理由を常に自分の外側(会社、市場、他人の評価)に置く発想でもある。誰かに認めてもらえないと、動けない。それは、古代の分類でいえば「非自由人の技術」側の思考回路だ。
対して自由人は、こう答えるのではないか?
「これを学ぶのが好き。だから学ぶ。以上。」
理由が、自分の内側で完結している。この自己完結こそが、他者に評価軸を委ねない自由の正体なのだと思う。
あなたのキャリアは、どっち側にある?
さて、ここで話をキャリアの話にしたい。
30代後半〜40代。ある程度の実績も、役職も、給料もある。傍から見れば、順調だ。でも、ふとした瞬間にこう思うことはないだろうか。
「自分は、人生を自ら選択して生きることができているんだっけ?」
気づけば、「会社の評価軸で動く」「世間の”正解ルート”に乗る」「上司や周囲の期待に応える」など、自分の意思決定が、まるごと外部に握られている状態が当たり前になっていく。
これは、構造としては古代の「非自由人の技術」とまったく同じなのではないか?
だから、キャリアにおける「自走」とは、大げさに言えばこういうことになる。
現代版の”自由人”になること。
自分の判断で選び、決め、必要なら今のレールから降りられる。その状態を、取り戻すこと。これが、キャリアにおける「自走」の最終着地点何だと思う。
リベラルアーツが与えてくれる、たった一つのもの
じゃあ結局、リベラルアーツはキャリアに役立つのか、役立たないのか。
正直に言う。履歴書に書けるスキルとしては、たいして役に立たない。哲学を学んでも、歴史を学んでも、明日の商談は決まらない。
でも、もっと深いところで、たった一つだけ、決定的なものをくれる。
「自由度」だ。
世の中の”正解”を、鵜呑みにせず疑える
目の前の選択を、自分の言葉で意味づけできる
「みんながそうしてるから」で流されなくなる
自分の人生の意思決定権を、他人に明け渡さなくなる
これらは全部、スキルというより自由に生きるための地力だ。そしてこの地力こそが、キャリアを「自走」させるベースになる。
今すぐに役に立たないものが、周りに回っていちばん深いところで役に立つ。
実際、僕自身がそのような経験をしてきた。海外にバックパックひとつで飛び出したのは、これまで2回。目的なんて特になく、ただ「行ってみたかったから」。
国内も、気づけばかなりの数の土地を巡ってきた。今も土曜日はデザインスクールに通い、UI/UXやサービスデザインという、本業と直接は関係ない領域を学んでいるし、他社のデザイン会社の人と会話をさせていただき、たくさん質問させていただいている。
私は経営学者・楠木健さんを非常に尊敬している。楠木さんの著書に『好きなようにしてください』というものがあるが、僕はずっとそれを地で行ってきた自覚がある。
どれも、今すぐ何かの役に立つわけじゃない。むしろ遠回りにしか見えないかもしれない。それでも僕は、こういう「すぐには役立たないもの」こそが、結局いちばん自分の人生の役に立つと思っている(し、実際自分の人生の役に立っている。それが目的ではなかったが)
「これは役に立つか?」という考えをいったん捨ててみよう
「役に立つか」を、いったん捨てる。ということを提言したい。
面白いから読む。気になるから調べる。それでいい。誰の判断軸にも左右されず、好奇心のおもむくままに行動した瞬間、逆に学びは深くなる。
リベラルアーツは、役に立たない。
だからこそ、あなたを自由にしてくれる。
そしてキャリアの自由とは、結局のところ自分の人生を、自分で運転している状態のことだ。
役に立つ/立たない、という物差しを、脇に置いてみる。
「この判断、本当に自分で選んでる? それとも流されてる?」と一度問うだけでいい。それがもう、自由への第一歩だ。
こうした小さな一歩の積み重ねから、キャリアの自走は始まる。