ども、ずーです。
ある日、一緒にコーチングのセミナーを受けていた同期の男性が言いました。「今まで家族の幸せのためにと思って一生懸命仕事してきたけど、その家族の中に自分が入ってなかった」と。
夫や父、妻や母が身を粉にして家族に献身的に尽くすのはとても美しいことのように思えます。そしてそれは人として当たり前の行動かのように言われることもあります。
私はこの同期の言葉を聞いたとき、よくあるドラマの一幕が思い出されました。夫(父)は「俺はお前たちのために寝る時間も惜しんで嫌な上司や取引先に頭を下げて仕事してきたんだ」妻(母)「あなた一度も家庭を顧みなかったじゃない。いつも仕事仕事って」そう、夫が妻にいきなり離婚話をされるシチュエーションです。
そしてもうひとつ母が子に対して母「私はあなたのためを想ってこんなにいろいろと世話してきたのに」子「頼んでない。余計なお世話」
かなり極端な例かもしれませんが、自分を抑えて家族のために献身的にやってきたのに、その思いが相手に伝わらない哀しいことが実はよくある話です。
なぜ、これほどまでに家族を想い、身を粉にして尽くしてきた人たちの結末が、このような悲しい結末を迎えてしまうのでしょうか。
それは、彼らが注いできたエネルギーの源が「自己犠牲」だったからです。
「自分の睡眠時間を削れば、家族が豊かになる」
「自分の感情を押し殺して理不尽に耐えれば、家族の平穏が守られる」
一見、これはとても美しく、尊い愛の形に見えます。しかし、心理学的な視点から見ると、ここには一つの大きな落とし穴があります。それは、「自分を犠牲にしている人は、無意識のうちに相手にも同等の見返りや我慢を求めてしまう」ということです。
「俺がこれだけ我慢しているんだから、お前も俺を敬うべきだ」
「私がこれだけ尽くしたんだから、あなたは私の言う通りに育つべきだ」
言葉にせずとも、その「犠牲の対価」としてのエネルギーは、知らず知らずのうちに重圧となって家族に伝わります。家族が本当に欲しかったのは、物質的な豊かさや完璧なお世話だけでなく、「目の前にいるお父さん、お母さんが、笑顔で幸せそうに生きている姿」そのものだったはずです。それなのに、当の本人が自分をすり減らし、不機嫌や疲弊を漂わせていたら、家族は受け取ったものに対して罪悪感を抱くか、あるいはその重さに耐えかねて反発するしかなくなってしまいます。
「家族の中に、自分が入っていなかった」
この同期の言葉は、裏を返せば、「これからは、幸せにしたい家族の輪の中に、自分もちゃんと入れてあげよう」という、人生の重大な方向転換のサインです。
シャンパンタワーを思い浮かべてみてください。
一番上のグラスが「自分」です。二段目が「家族」、三段目が「友人や仕事仲間」。
多くの優しい人たちは、自分のグラスを空っぽにしたまま、二段目の家族のグラスに一生懸命お酒を注ごうとします。しかし、それではいつか限界がきて、タワー全体が乾いてしまいます。
まずは、一番上にある自分というグラスを、自分自身の手で満たしてあげること。
「私は私でいいんだ」
「よく頑張っているね」
そうやって自分を丸ごと認め、受け入れる「自己受容」のステップこそが、すべての溢れる愛の出発点になります。
自分が満たされ、心の底から幸せを感じていて初めて、その溢れ出たエネルギーが、本当の意味での「見返りを求めない無償の愛」として、大切な家族へと自然に流れ込んでいくのです。
まずは、あなた自身を大切にすること。
あなたが笑顔でいることが、結果として家族や周りの人を最も幸せにする最短ルートになるのですから。
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