こんにちは。
人間形成の場「エンパワlabo」の有岐です。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
前回の「真の内丹術」――エネルギーの錬金術では、
私たちの身体は、いわば「自己変容の炉(かまど)」であり、
内丹術とは、「静・氣・神」と変化の段階がある事をお話させて頂きました。
第一段階:錬精化気(れんせいかき)は、精を氣に変える段階。
第二段階:錬気化神(れんきかしん)は、氣が神と成り、内丹が出来る段階。
第三段階:錬神還虚(れんしんかんきょ)
そして今回は、
最後の錬神還虚(れんしんかんきょ)
—泥の中に蓮を咲かせ、すべてを飲み込む「虚」の境地 。
今日もディープな内容です。
最後まで楽しんで読んで頂けたら嬉しいです。
🌿1. 守破離の「離」:器を割り、海へ帰る時
内丹術のプロセスは、日本の伝統的な”道”における「守・破・離」の構造そのものです。
🔸「守」: 自分の内側に「丹(核)」を見つけ、型を作り、精を気に変える。
これが、錬精化気(れんせいかき)。
🔸「破」: 確立した自己(陽神)を柔軟に使いこなし、エネルギーの波を捉える。
氣を神に昇華する。これが、錬気化神(れんきかしん)。
🔸「離」: そして最後が、型からも自己からも離れる「錬神還虚」です。
これを海に例えるなら、「守」と「破」は、
海面に浮かぶ波としての自分を自覚し、その心の波の形を整える作業です。
しかし「離」の段階では、
波は「自分は波である」という執着を捨て、海そのものへと帰還します。
ここで重要なのは、波が消えてなくなるのではなく、「海全体の力が、その一滴に宿る」ということです。
個としての小さな「境界線」を撤廃したとき、私たちは初めて「全」としての力を手にするのです。
🌿2. 剣の理(ことわり):作為(さくい)を捨て、場を飲み込む
私は剣の道においてはまだ未熟ですが、精進の中で確信していることがあります。
剣道では「攻め」が大切だと言われます。
剣先が合ったとき、相手の気を読み、間合いを計る。
しかし、相手を動かそうとしたり、隙を作らせようとしたりする「作為」は、まだ「個」の執着に過ぎません。
本当の境地とは、「静寂の中で相手を把握し、飲み込む」ことにあるのではないでしょうか。
相手を「外側の敵」として見るのではなく、
自分の「静(虚)」の中に現れた一つの現象として自分が「在る」。
そんな状態の中、鏡のような心で相手を映し出したとき、
そこに見えるのは相手の「心の弱さ」です。
その弱ささえも、自らの丹力で優しく、しかし圧倒的に飲み込んでしまう。
「刃の中に丹があり、丹の中に刃がある」という言葉が武当派武術にあります。
自分と相手、静と動の境界線が消え、一つに溶け合ったとき、
そこには「打とう」という意志を超えた「爆発的な陽の千の気」が生まれます。
それは個人の筋肉の動きではなく、ただ「そうなる」としか表現できません。
宇宙の必然がその一撃を放たせるような感覚です。
練習の中で「今日はいい小手打たれたわ!」と言って頂いても、その時どうやってそれを出したのかすら、わからないし、思い出すことすらできないのです。
きっと武術をされている方は、深く共感して頂けるところだと思います。
これこそが、錬神還虚という「虚」の境地が、現実の肉体や行動として現れる瞬間なのです。
🌿3. 宗教観への問いかけ:男性原理の「断」から、女性原理の「受」へ
ここで、私たちが生きる現代における「悟り」について私の立場でお話させて下さい。
仏教において、ブッダは家族という執着を捨てて出家しました。
多くの宗教や修行体系は、男性によって作られ、山に籠もり、関係性を「断ち切る」ことで高みを目指す「男性原理」に基づいています。
「執着を捨て、個を消して天に帰る。」
そう説かれています。
しかし、人間は「社会性」の生き物です。
誰一人として、この地球上で独りで存在することはありません。
世界的名著『夜と霧』の著者であり、ロゴスセラピーを提唱したヴィクトール・フランクルという人物をご存じでしょうか?
彼はユダヤ人であったため
ナチスの強制収容所という極限状態を「観察者」としても見つめ続けました。
生存の別れ目は、肉体が強い者ではなく、
未来への「意味」を抱き続けた人心に生まれた、
「レジリエンス(しなやかな強さ)」だと書かれています。
「自分は一体こんな理不尽な世の中で何のために生きているのだろう?」
社会の権力が集中した、監視を奴隷のような現代の社会で、
今、そう感じていないでしょうか?
彼は、人間が生きる根本の動力は、こうだと言います。
「快楽」でも「権力」でもなく、「人生の意味を見出すこと」だと。
これが、禅で言う「自灯明」、
—灯りを自分の内側に見出しながら生きることと同じだと感じます。
あなたの中で探し求めている「人生の意味」は何ですか?
同じように、名前もない戦時中の母親たちの姿も、
まさにそれを体現していたと思うのです。
夫や息子を戦争で失い、絶望の淵に立たされながらも、
目の前の子供を育てるためにすべてを「器」の中に受け入れ、
泥を這うようにして生きていく。
その母には、地位も名誉もありません。
そこには、ただ「愛の生」があるだけです。
私は「生きる」とは、
泥の中から栄養を吸い上げ、美しい花を咲かせる蓮のようなもの
だと思うのです。
生きるって、大変じゃないですか。
それは「今の自分を否定してどこかに行く事ではない」と思うのです。
私の考える錬神還虚は、「投影」 の中で生きる。
つまりそれは、相手の中に自分を見、自分の中に相手を見る。
その境界がなくなるまで「溶かし続ける」
「すべてを抱きしめ、共に溶ける」これが「道」やないんかなあと思うのです。
🌿4. 愛ゆえの痛みを受け入れる~「愛別離苦」の先にあるもの~
私には息子がいます。
かつて、息子が自殺未遂をしたという連絡を受け、
病院へ駆けつけたことがありました。
「死んだ」と思ったその瞬間、私の中に湧き上がったのは、
理屈や理性を遥かに超えた情念でした。
「自分より大切な命がなくなった。なら、自分ももう死んでしまおう・・・」
それが正直、初めに浮かんだことでした。
これは、修行者が捨てるべきだと説く「執着」や「愛着」という言葉で片付けられるものではありません。
人間という存在が、関係性の中でしか生きられないものである以上、
この強い絆、愛こそが、逃れられない「人間本来の姿」です。
自分の境界線が、愛する他者の痛みと完全に重なり、溶け合ってしまう・・・
その絶望の中で、自分の意志ではままならない中で、
ただ心臓が鼓動を刻むのをやめるまで生きるしかないということ。
自分の意思を超えたところで「生かされている」という事実に身を委ねること。
この「逃げ場のない愛の中で、傷を受け入れ、生きていく覚悟」
それこそが、私の辿り着いた錬神還虚のベースなんです。
🌿5. 日常に還る「真の錬神還虚」
私たちは「虚」や「無」という言葉を聞くと、
何もない空白(Nothing)を想像しがちです。
でも、内丹術の究極が教える「虚」とは、何も無いことではありません。
それは、「すべてが有る(有るがままに溶けている)」状態です。
真の「虚」とは、
あらゆる愛、痛み、絶望、そして歓喜がドロドロに溶け込んだ、
豊かな「泥」のようなものです。
私たちの人生における苦しみ、迷い、愛するがゆえの痛み・・・
それらすべてが「泥」であり、
私たちが「虚」へと還るための栄養なんやとおもうのです。
私はまだ、錬神還虚に至った者の目を語ることはできません。
なぜなら、人は死ぬまで、出来事や愛の中で自分を投影し、
溶かし込み続けていくプロセスの中にいるからです。
私たちの目、鼻、口は外側に開かれていますよね。
皮膚は常に外の世界を感じ、全身が「受容器官」として設計されています。
だから、私たちが最後の鼓動を打ち終えるその瞬間まで、
世界と触れ合い、傷つき、愛し、溶け合い続けるのではないでしょうか。
「神を虚に還す」とは、
完成された高い場所に昇ることではないんやと思うんです。
この現実という泥の中に深く根を張って、
自分という器を壊して、世界を丸ごと飲み込んでいくこと。
不器用でも、傷だらけでも、
その中でただ心臓が動く限りただ「生きる」。
その日々そのものが、最も尊い「錬神還虚」の実践なのやと、私は信じています。
この記事が、今、人生の「泥」の中で戦っている誰かの心に、一滴の丹力として届けば幸いです。
本日も最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。
皆様のご感想、是非聞かせて下さいね。
氣功師の有後でした💖