(5)「脳の活用」と「心の活用」は別物なのだ
②高度な宗教修行者は「脳」と「心」が別物であることを知っている
仏教修行の土台であるヨーガでは「体位法」「呼吸法」「瞑想法」の3つを駆使しますが、このうち「体位法」「呼吸法」が「脳」及び神経内分泌中枢の開発に主眼を置き、「瞑想法」は「心」の開発に主眼を置いてい。ただ、「脳」と「心」は別物であると同時に密接不可分の関係にあり、「脳」を離れて「心」は成長せず、「心」を離れては「脳」は機能しないのです。
「心脳二元論」~「脳」は記憶しますが、興味を持つのは「心」です。いくら「脳」が経験しても、「心」が興味を持たないものは「脳」は一切取り入れません。したがって、それは経験にならないのです。例えば、「脳」は神を認めなくても、「心」は神にすがるのです。
「シャマタ」(奢摩多、「止」)~「心」が止滅した状態。外界の対象に向かう感覚器官を制御して、心の働きを静める行です。「無心定」とも言います。一般的な「瞑想法」としては、自己を完全に否定するプロセスが必要になります。
「ビバシャナ」(毘鉢舎那、「観」)~統一された心の思惟観察の働き。静まった心に対象の映像をありありと映し出す観法の行です。一般的な「瞑想法」としてはイメージ力の強化が必要となります。
「双運」(そううん)~「止観」(シャマタ・ビバシャナ)の行を同時に行なうこと。対象を完全に消滅させると同時に、全く別の対象をそこに現出させる行です。「成仏法」(成仏陀)も「成功法」も全ては突き詰めれば「双運」です。
すなわち、竜樹(ナーガールジュナ)らが大成した初期大乗・空仏教の目指した「空」を、無着(アサンガ)・世親(ヴァスパンドゥ)らが大成した中期大乗・唯識思想では完全なるシャマタによって実現し、さらに強力なビバシャナによって「仏陀」の現出を図るという「速疾成仏」論が説かれます。これはそのまま後期大乗・密教に引き継がれ、古代ヨーガの技法を「身密」(体位法=アーサナ、印契=ムドラー)、「口密」(真言=マントラ)、「意密」(三昧=サマディ)の「三密加持」に再編成し、その行法次第を「曼荼羅」に集約して、「即身成仏」論を展開していくのです。
「千年に一人の天才」と称される空海はこの「即身成仏」を宮中で実践して見せたという記録もありますが、その後の真言宗で空海を超える人物が出るはずもなく、鎌倉新仏教に至っては浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞は「南無阿弥陀仏」という「口密」に、臨済宗の栄西は「公案禅」という「意密」に、曹洞宗の道元は「只管打坐」という「身密」に、日蓮宗の日蓮は「南無妙法蓮華経」という「口密」に重きを置き、実質的に「一密加持」に徹していきました。したがって、現代の成功法でもこうした宗教的修行法のエッセンスを一般化・普遍化して活用していけばいい、ということになるわけです。
「祈り」~「瞑想」は自己への沈潜ですが、これが内なる自己(良心=内なる神)との対話になると、「祈り」となります。両者の違いは自己が主体か対象かということです。つまり、「祈り」には明確に祈る「相手」がいるということです。したがって、「瞑想」は仏教において最も高度に発達した宗教的修行法の一種ですが、「祈り」はキリスト教の「幼子の祈り」に代表されるように、どの立場からでも始めることができ、「ゲッセマネの祈り」のように神との深い対話にまで至り得るものであると言えます。
「山中鹿之助(鹿介)といえば戦国時代の有名な豪傑である。その鹿之助はいつも「七難八苦を与えたまえ」と神に祈っていたという。それをある人が不審に思って、その理由をたずねると、鹿之助は、「人間の心、人間の力というものは実際にいろいろのことに出合ってみないと自分でもわからない。だから、いろいろな困難に直面して自分をためしてみたいのだ」と答えたという。「憂きことの なおこの上につもれかし かぎりある身の力ためさん」という歌が彼の作として伝えられている。人間が神仏に祈るという場合、その内容はいろいろあるだろうが、概していえば、いわゆるご利益を願うのがふつうだと思う。幸せを祈ったり、健康を祈ったり、あるいは金儲けを祈るということはあっても、困難や苦労を与えてほしいと願う人はまずほとんどいないのではなかろうか。だから、七難八苦を与えたまえという鹿之助の願いを周囲の人が不思議に思うのは当然だといえよう。しかし、鹿之助はあえてそれを祈った。それは困難によって自分をためし、自分をきたえたいと考えたのでもあろうが、同時にそのようにみずから祈ることによって、われとわが心を励ましていたのではないだろうか。」(松下幸之助『指導者の条件』)
「祈りは、自分の心を清純にして、小知小才に頼らず、素直に、与えられた自分の生命力を完全に生かしきるために行うのだと思います。人間は宇宙根源の力から、実に偉大な生命力を与えられているのです。ところが、私たちはとかく自分の勝手な意欲に迷い、この与えられた力を素直に生かしきらない場合が多いのです。そこで、自分の我欲を捨て、清純な心になって、この力を素直に発現させるために、「祈り」ということを行うのです。ちょうど鏡の前に立って、自分の身の容姿を直すのと同じように、自分の心の容姿を正すために「祈り」があるわけです。ですから、神や仏に、求めたり頼んだりすることは、正しい「祈り」のしかたではないと思います。もっとも、お祈りするときには、神や仏にお願いしたりすがったりするという、通念的な潜在意識があり、また人情として、こういう言葉が出てくることは当然ですから、別にこれを止めるわけでありません。ただ「祈り」の本質とはどういうものであるかということを、はっきり知っていなければならないと思います。」(松下幸之助『松下幸之助発言集37』)
「足あと
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」」(マーガレット・F・パワーズ)
【参考文献】
『唯識の心理学』(岡野守也、青土社)
『唯識のすすめ 仏教の深層心理学入門』(岡野守也、NHK出版)
『自己成長の基礎知識③ 東洋の心理学』(R・フレイジャー、J・ファディマン、春秋社)
『指導者の条件』(松下幸之助、PHP研究所)
『松下幸之助発言集37』(PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室、PHP研究所)
『あしあと<Footprints>―多くの人を感動させた詩の背後にある物語』((財)太平洋放送協会<BPA>)