教養としての日本儒教③:古学

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古学:孔子・孟子、さらには周公から堯・舜・禹の「先王の道」にまで帰ろうとする原点回帰運動。朱子学も陽明学も仏教や道教の影響を多分に受けた新儒学(ネオ・コンフューシャニズム)ですが、これに対して儒教原典の実証的研究が進み、古学(山鹿素行)→古義学(伊藤仁斎)→古文辞学(荻生徂徠)が形成されます。特に古文辞学は近代的学問の原点となったヨーロッパの聖書批評学、中国清朝の考証学と時を同じくしており、方法論的に高く評価されています。

山鹿素行(やまがそこう):山鹿流兵学・古学の祖、『聖教要録』『中朝事実』。林羅山について朱子学を学び、さらに甲州流兵学を学んだ後、朱子学批判に転じ、孔子や周公の直接の教えにつくことを主張する古学を提唱しました。また、武芸を重んじ、学問を軽んじる当時の武家の風潮に対し、太平の世における新たな武士のあり方を士道として主張し、武士は儒学に基づき、為政者の役割を果たすべきだと主張しました。素行は地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方説を否定しています。ここから『中朝事実』では、中国では易姓革命で王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われていて君臣の義が守られてもいないので、中国を天命の中心として四方に夷蛮(東夷、南蛮、西戎、北狄)を配する中華思想を否定し、日本は外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られているとして、日本こそが中朝(中華)であると主張しています。

士道:武士が重んじるべき道徳、民の対する為政者としての道。

伊藤仁斎:古義学、『童子問』『論語古義』。日常卑近な人間関係における仁愛こそ天道にかなうものであり、人々が孔子の道に立ち返り、他者に対する忠信や忠恕の実践に努めるならば、互いに愛し親しむ和合が実現するとして、「誠」を重んじました。京都堀川の古義堂(堀川学校)は堀川を隔てて山崎闇斎の闇斎塾と相対しており、仁斎は穏やか、闇斎は厳しい人柄で知られ、両塾ともに人気が高く、古義堂では約40年間に約3000人が学んだとされます。

古義学:仁斎は『論語』を「最上至極宇宙第一」の書とし、『孟子』を孔子の思想を正しく理解するために必要不可欠な解説書と捉え、これらの古義(古代語における元々の意味)を明らかにすることによって文献的に孔子・孟子の思想を実証しようとした

真実無偽(むぎ):私心の無い、純粋な心の状態。伊藤仁斎が「誠」を表すのに用いた言葉。

『童子問』:童子の問いに師が答える形で人間の生き方を述べたもの。

荻生徂徠(おぎゅうそらい):古文辞(こぶんじ)学、『弁道』『政談』。「道」は天地自然に備わっているものではなく、人為的なものだと捉え、為政者が学ぶべき道とは道徳ではなく、天下を安定させるための手段であるとしました。すなわち、孔孟の教えの実践よりも先王の時代の制度を重視し、それを学ぶには六経などの古文辞(中国古代の言語)を訓読に頼らず、中国語で読まねばならないとしました。かくして、徂徠は朱熹を古代の言語を全く知らないと批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を提唱して、蘐園塾(けんえんじゅく)で多くの門人を育てました。8代将軍吉宗の政治的助言者であり、討ち入りをした赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡、室鳩巣、山崎闇斎の弟子にして「崎門三傑」の一人である浅見絅斎(あさみけいさい)らが賛美助命論を展開したのに対し、徂徠は「もし私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」として義士切腹論を主張して、この徂徠の論が採用されました。

礼楽刑政(れいがくけいせい):古の聖人が定めた制度「先王之道(せんおうのみち)」で、その目的は経世済民(けいせいさいみん)にあるとされます。荻生徂徠は、学問の目的は人格の修養ではなく、経世済民を学ぶことにあると考えました。
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