教養としての儒教⑥:宋学と朱子学

記事
学び
朱子:朱熹(しゅき)。理気二元論、性即理の立場に立ち、儒教・仏教・道教を総合して「理学」と呼ばれる宋学を大成し、壮大な体系である朱子学を確立し、新興地主層(形勢戸)から科挙を経て官僚となった士大夫の指導理念になると共に、東アジア全体に影響を与えました。朝鮮王朝では国教化し、江戸幕府の統治イデオロギーともなりました。『四書集注(ししょしちゅう)』『資治通鑑綱目(しじつがんこうもく)』『近思録』『宋名臣言行録』。私欲によってその発露が妨げられているので、心を慎み、事物の理を究める居敬窮理によって「道」を発揮しなければならないと考えました。

性即理:「道」「天理」とは万物の根源であるだけでなく、人間の心の中にも「本性」として備わるものであるという考え。『中庸』が「天人一理」の典拠とされ、ここから「性即理」の思想が導出されました。ストア派の自然法思想(宇宙の理法=人間の理性)とも通じます。

居敬窮理:自己の欲望を抑え、理を窮めるという朱子学の修養法。感情や欲望に動かされることを慎むこと(居敬)、客観的な法則としての理を窮めること(窮理)。居敬窮理によって、人が本来の知に至ることを格物致知と言います。

八条目:『大学』に示された修己治人のための実践原理。「近代中国の父」と呼ばれる孫文も、この八条目を世界に誇るべき政治哲学の宝として、新しい中国の政治の根本とすべきだと述べています。
(1)格物:事物の理を窮める。朱子は「事物に格(いた)る」と読み、王陽明は「行為を格(ただ)す」と考えました。
(2)致知:知識を極限まで広げる。朱子は「知を窮(きわ)める」ととらえ、王陽明は「良知を実践する」ととらえました。この「格物致知」の解釈が朱子学と陽明学の最大の分岐点とされます。朱子は「物に即(つ)きてその理を窮め、その知を尽くす」と解釈し、陽明は「我が心の良知を事物の上に顕現させる」と説明しました。朱子の「格物致知」はカントの「純粋理性」、陽明の「格物致知」はカントの「実践理性」に通じる考え方だと言えるでしょう。
(3)誠意:意を誠にする。自己欺瞞を無くすこと。朱子は初学者に最も大切であるとしました。
(4)正心:心を正す。
(5)修身:身を修めて善を行う。
(6)斉家:家庭を整える。
(7)治国:国を治める。
(8)平天下:天下を平らかにする。

『四書集注(ししょしっちゅう)』:四書に対する宋代の学者達の注釈をふまえつつ,自己の世界観に基づいて新たな解釈を加えており、朱子学の言わばバイブルとして尊重され、最も広く読まれました。

『資治通鑑綱目(しじつがんこうもく)』:理想的な中国史ダイジェストにして帝王学の書とされてきた、北宋の司馬光による『資治通鑑』を元に、重要事項を綱、付随細目を目として編纂した歴史書。「大義名分論」などの儒教道徳の標準を示す根本教科書として東アジアに普及し、『神皇正統記』『大日本史』の成立にも影響を及ぼしました。

『近思録』:北宋の哲学者である周濂渓(しゅうれんけい)、張横渠(ちょうおうきょ)、程明道(ていめいどう)、程伊川(ていいせん)の著作から編纂した宋学の入門書。朱子は「四書は六経の足がかり、近思録は四書の足がかり」と述べています。

『宋名臣言行録』:「宋代の士風」を形成した名臣達の逸話集。『貞観政要』と並んで、為政者の必読文献として親しまれてきました。

周濂渓(しゅうれんけい):周敦頤(しゅうとんい)、北宋の五子。朱熹が高く評価した程明道・程伊川兄弟が少年時代に周敦頤に師事していたとされ、朱熹が展開した道統論において孔子・孟子の延長上に周敦頤を置き、孟子以後1400年の間、埋もれていた道統を継承して聖人の学を再び明らかにしたものが周濂渓であると位置づけられたことから、儒学史において重要な地位を与えられました。『太極図説』『通書』。「太極」が森羅万象の根源であり、陰陽と五行の錯綜によって万物が生成されていくとし、この「太極」を『中庸』で示される「誠」と結びつけ、人の根本に「誠」がある状態とは人の根本に「太極」がある状態であるとしました。そして、万人が学問を通じて聖人に近づけるという見解は、従来の貴族に代わって宋代より新たに勃興する士大夫の意向にかなうものでした。

張横渠(ちょうおうきょ):張載(ちょうさい)、北宋の五子。地方官を歴任した後、中央に上がりますが、王安石の新法に反対して帰郷し、読書と思索に没頭し、「気の哲学」(唯物論)を創始したことで知られます。「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」と述べる豪傑で、兵法・仏教・老荘なども経ていますが、甥に当たる程明道・程伊川兄弟から易論を聞いて感服し、門人達を二程氏に師事させています。無形である太虚と有形である気を一物両体、太虚即気という緊密な関係にあるとし、気一元の哲学を樹立して、明代の王陽明や明末清初の王夫之、日本の大塩平八郎には大きな影響を与えました。

程明道(ていめいどう):程顥(ていこう)、北宋の五子。中央では新法の王安石と意見が合わず、地方官を歴任しますが、周の文王の「民を視ること傷むが如し」を座右の銘とし、誠によって民を感化することを政治の要訣と考え、その温厚な人柄によって多くの人に慕われ、あわせて実務処理の優れた才能を発揮して善政を行ったため、「通儒全才」と称されました。多様な自然現象を秩序づけている法則を「理」と呼び、この理を直観によって把握すべきであるとし、心においても他人の苦しみを感じないことを「不仁」、感じ得ることを「仁」と考え、天地万物を我が事のように一体と認識するような仁を体得するためには「誠敬」の心を持たなければならないとしました。弟の程伊川が兄の発想を分析・理論化したのに対し、程の直観を重視する傾向は陸象山に受け継がれ、朱子学・陽明学双方の源流となります。ちなみに程明道の学風は「春風和気」と言われるのに対し、程伊川の学風は「秋霜烈日」とされます。

程伊川(ていいせん):程頤(ていい)、北宋の五子。程伊川の学問は兄・程明道の直覚的な学風とは対照的で従来のように陰陽の二気を即宇宙の原理「道」とするのではなく、「道」は陰陽の根拠・原理であると同時に陰陽二気の働きによって創り出された現象世界に内在し、それぞれの事物の「理」となっているとして、これを「理一分殊」と呼びました。「気」を質料とするのは他の学者と同じですが、「気」の存在や運動の因となるもの、形相としての「理」の存在を認め、一物の理は宇宙全体の理と同一であると考えることによって、道徳の淵源である「道」の尊厳を保ち、人の「性」をも「理」であると考えました。そして、「理」を絶対善・精神性、「気」を相対性・物質性としてとらえ、物質的なものの中に潜む理を窮めることにより人の「性」は本来の善を取り戻すことができるとし、『大学』の「格物」を「物の理を窮める」ことと理解したのです。こうした程伊川の「理気二元論」「性即理」「格物」などの発想は朱子に継がれました。程明道を宋学のプラトンとすれば、程伊川は宋学のアリストテレスと言ってもいいかもしれませんが、程伊川にはストア派的な要素も見られます。

邵康節(しょうこうせつ):邵雍(しょうよう)、北宋の五子。『易経』の河図洛書と先天象数の学を伝授され、易学について思索を深め、洛陽で儒学を教えます。司馬光・程氏兄弟(程明道・程伊川)・張載などの政学界の大物を知己とし、ものにこだわらない豪放洒脱な人柄から「風流の人豪」とも言われ、洛陽の老若男女に慈父のように慕われました。「易の名人」として知られ、自然の中の現象から数を採って易卦を立てる「梅花心易」を創始し、晩年に天津橋上でホトトギスの声を聞き、王安石の出現と政界の混乱を予言したとされます。占機が動いた時(その件に関して占おうと思い立った時)の年・月・日・時刻から数を採り、 周易の八卦(小成卦)・六十四卦(大成卦)に置き換えて占断する先天法や、ケースに応じて、目に触れた物・耳から聞こえてきた物・心で感じた物等から数を採り、八卦に置き換えて占断する三要応法などがあります。

名人と達人の違い:邵庚節と息子が山中に隠棲していた頃、ある夜、家の戸の前で「今晩は」と声を掛ける人がいて、続いてドンドンドンドンドンと五回ほど戸を叩く音がしました。隣の農家の主人が何か物を借りにきたのですが、邵庚節は息子に梅花心易の三要応法を使って、隣家の主人が借りに来た物を占わせました。すると、息子はまず「今晩は」と一声掛けたので、これを採って一の数の卦「乾(けん)」を第一の卦とし、次にドンドンと五回ほど戸を叩いたので、五の数の卦「巽(そん)」を第二の卦としました。それで、第二の卦の「巽」を下にし、第一の卦の「乾」を上にすると「巽下乾上」となり、これで周易の「天風后(てんぷうこう)」という六十四卦が本卦となります。次に変爻があり、酉の刻でしたので十とし、先ほどの一+五に更に十を足して十六とします。この十六を「六払い」すると四が残るので四爻変となり、「天風后」の四爻変は「巽下巽上」で、「巽為風(そんいふう)」の之卦となります。そして、互卦は「乾為天(けんいてん)」となります。以上から判断すると、六つの小成卦の中に乾金の卦が三つ、巽木の卦も三つあり、易の象意では、乾は「剛金」、巽は「長い木」という事になります。そこで息子は「判りました。長い木に短い金属が付いている。これは鋤(すき)です」と占断したのです。すると、邵庚節はからからと笑って言いました。「違う。それは斧(おの)だ。お前の卦の立て方は間違いないし、判断もまずまずだ。しかし、夜だというのに畑仕事用の鋤を急に借りに来る人がいようか。これは、今夜は特に寒さが厳しいのに炉にくべる薪が足りなくなり、薪を割ろうとして斧が壊れたのだ」。そこで隣の主人を招き入れると、果たして斧を借りに来ていたのです。息子の邵伯雲も後に達人の境地に達した人ですが、名人と達人の違いが「斧と鋤と違い」というわけです。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す ココナラコンテンツマーケット ノウハウ記事・テンプレート・デザイン素材はこちら