前回の記事で書きました。
上司の言葉にムカムカしながらも我慢し続けている部下の話です。
上司の言葉の真意を確認すればいいのに、それはしない。
真意を確認したら、
「考えすぎだよ」
「君に問題があるんだよ」
と、いずれかの反応になることが予想され、そういう未来を恐れてしまう。
これは誰しも思うことです。
では、我慢を続けたら、そのあとどうなるのでしょうか。
我慢には限界があります。
「パワハラですよね」という訴え
もう我慢できない。耐えられない。会社に訴えてやる。
そして、こういう場合には「パワハラですよね。」という訴えになりがちです。
どうしてパワハラだと思ったのか。
その「悪くない」という上司の言葉によって苦しめられているからです。
でも、上司は悪口のつもりでその言葉を使っていないのだとしたら、それでもパワハラか。
多くの会社では、このような場合に「パワハラかどうか」という部分に関心が向かい、パワハラかどうかの事実調査を開始します。
私が思うに、これも「愚か」なことです。
「言わなくても察しろ」は愚か
上司の言葉を悲観的に解釈し、その真意を誤解し、我慢の限界に達したら、いきなり「パワハラだ」と訴える。
この流れに沿って、会社が「パワハラかどうか」を調査しても、問題は解決しません。
むしろ、不毛な責任のなすりつけ合いに陥り、相互不信はさらに深刻になります。
ではどうしたらいいのか。
部下が我慢をしないで上司の真意を確認すればいいのです。
現代人には、この悪循環に陥るクセがあります。
相手の言葉が気になるのなら、我慢しないで相手に真意を聞けばいい。
ところが、それは聞きにくいのです。
私たちには「そういうことは聞くもんじゃないよ。」と、深い対話を避ける文化があるからです。
「言わなくてもわかるでしょ。」「難しいことを話すのが面倒くさい。」「議論はよくないこと。」
という文化だから、相手に真意を確認しないでも、相手をわかったつもりなれてしまう。
相手を察するのは素晴らしい。察することができないのはダメな人間だ。
でもこれ、対話法を指導するカウンセラーとしては「最悪の考え方」なのです。
考えてみてください。
気持ちを察するのが正解だとしたら、上司と部下、どちらが相手を察するべきですか?
これでは、察するべき側の心理は相手の奴隷になりさがり、永遠に我慢し続けることになるのです。
それを素晴らしいと思うのなら、それは人間のクズってことになりませんか。
「違うよ。互いに相手を察すればいいんだよ。」
そうです。相手を察するために対話をする。これが正しい対話法です。
で、私たちはそれをしていますか?
相手を察するよりも前に、自分が勝つことを考えていませんか?
人間のクズにはならないで
「対話」は不完全なコミュニケーション手段です。
常に誤解が起きるし、どんなに頑張っても相手の考えを完璧に理解することはできません。
そして、理解をするのにたくさんの時間と手間がかかります。
そのストレスに耐えられないで、相手を理解する前に感情的になり、相手を非難する私たち。
最悪な文化です。
現代社会では複雑で緻密な相互理解の重要性が高まっています。
社会が複雑になり、人間は複雑な仕事ばかりするようになったのですから、当然のことです。
しかし、私たちが粗雑な対話しかできないなら、対話からストレスが生じます。
このとき、そのストレスの原因を「相手のせい」にしてしまうとどうなるか。
ストレス発生の本当の原因を探らなくなります。
だって、対話をしないで一方的に相手のせいにしているのですよ。
ストレス発生の原因を冷静に分析すれば問題を解決できるのに。
責任を誰かになすりつけて終わりにする文化
本当は対話のメカニズムから生じている現象なのに、それとは無関係の部分に焦点を当てて、誰かのせいにして終わりにする。
たいていは立場が弱い人がその責任を取らされます。
責任をなすりつけられた人は当然、納得がいかなくてストレスがたまる。
そうなることが怖いから。責任を取らされて敗北するのがイヤだから。
相手とやり合う以上は自分が絶対に勝たなければならないと考えるから。
相手を理解することなんてどうでもよくななります。
そして、相手をとりあえず「パワハラ加害者だ」「いやお前が悪いからだ」と相手を非難し、法律を味方につけてマウントを取りなくなります。
会社も、法律的に負けたくないから弁護士を使ってマウントをとる。
これが多くのパワハラトラブルの実体ですが、最悪でないと言えるでしょうか。
私たちは、対話において「自分が勝ちたい。負けたくない。」という意識を持っていませんか?
その無駄な防衛本能によって相互理解がおろそかになり、不毛な対立を生んでいます。
現代の日本の文化には、こういった深刻な問題が含まれていることに一人でも多くの人に気が付いていただきたいです。
実は、はるか昔にこの問題に気が付いていた人がいました。
それはいずれ別の記事にします。