教員を辞めた私の学校での働き方

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 こんにちは。きょうざい工房ツツミです。
 しばらくブログの投稿が滞っておりました。
 (転職先での仕事の多忙にかまけておりました)

 最近は、秋をすっ飛ばして冬の訪れが感じられるようになりましたね。
 学校現場では、定期テストや人権関係の催し、進学に向けての準備が進んでいる時期なのではないでしょうか。
 季節の変わり目ですので、皆様体調を崩されませんように。


 今日は、私の教員時代の働き方についてお話します。

 20代の頃は、とにかく一生懸命仕事をすることしかできなかったので、我武者羅に「量」をこなしていました。
 全国大会レベルの部活動の担当になり、土日関係なく練習を行っていました。20連勤なんていうのもザラにあったと思います。
 フラフラになって自損事故を起こしてからは、少し働き方も見直しましたが、それでも「とにかく長時間子どものために働くことが正しい」と信じてやっていました 笑


 アラサーになると初任校からは異動し、部活動の練習は以前ほど過激には行わないようになりました。(勤務校の決まりで、週2日は必ず部活が休みの日を設けることになっていました)

 その分今度は、授業研究に力を入れるようになりました。

 教科の授業準備はもちろん、人権や総合の授業の準備も手を抜かずに取り組みました。ちょうど学年団に同年代の教員が多かったこともあり、若手教員で夜遅くまで残って「あーでもない、こーでもない」と議論しながら授業準備をしたものです。遅くまで残り過ぎて警備保障の会社から電話がかかってきたり……(つまり日付が変わるような時刻まで仕事していたということ)
 やればやった分だけ子どもたちのプラスになっていることが実感でき、心身の疲れは否めなかったものの、かなりの充足感を感じていました。

 また、若手といえども勤務年数が長くなってくると、いろいろな校務分掌や市内での係も当たるようになっていました。
 授業のクォリティはできるだけ下げずに、時間の効率化も図りながら仕事をするよう心がけていましたが、
 物理的な仕事量はどんどんと増えていきました。


 つまりは、私の働き方は
 時間と健康
 の犠牲の上に成り立っていたに過ぎなかったのです。
 今になればわかりますが、プライベートを過剰に犠牲にする働き方は決して長くは続きません。
 それを証拠に、私は採用十年目の年に心身の調子を崩して休職しました。


 これをお読みの先生がいらっしゃったら、決してご無理はなさらないようにしてほしいです。
 いい意味で手を抜いたり、他の人に頼る勇気が必要だと思います。
 そのお手伝いを、私が少しでもできればと思っています。



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