『もしもし、蓉子ちゃん? 真田だけど、まだ仕事中?』
『マスター、こんばんは。いえ、今終わって駅に向かっているところです』
『そうか、間に合ったみたいだな。今日これから俺の店に来ないか?
今、誰もいないんだ。少し話したいことがあってさ』
『今からですか? 私、神奈川に住んでいるので遠いんです。終電がなくなったら帰れなくなりますから……』
『俺が送っていくよ。心配しなさんな。来いよ、待ってるから』
『……分かりました。じゃあ、すぐに行きますね』
電話を切ったあと、蓉子は少しだけ胸を高鳴らせた。
マスターは何の話をするのだろう。
それに――。
蓉子自身、マスターと初めて出会ったあの日から、なぜかこの人のことが気になっていた。
仕事の顔しか知らない。
だからこそ、一度ゆっくり話してみたいと思っていたのだ。
『クラブ ビー』へ急いだ。
『こんばんは……』
恐る恐るドアを開けると、店内にはマスターが一人だけいた。
カウンターに座り、水割りを静かに飲んでいる。
背中には、ほんの少しだけ愁いがあった。
その姿を見た瞬間、蓉子の胸が理由もなくドキッとした。
店は銀座6丁目、コリドー街にも近い場所にある。
少し古びたビルの地下にあり、広さは25坪ほど。
入口を入ると右手に大理石を一面に使ったカウンターがあり、店内は重厚で落ち着いた雰囲気にまとめられていた。
ただ、地下ということもあり、雨の日にはどこか空気が澱む。
それでも地下の店には、表通りとは違う隠れ家のような魅力があった。
『おう、帰る途中に呼び出して悪かったな』
『いえ。帰ったところで寝るだけですから大丈夫ですよ。それより……お話って?』
『まあ、まずここに座れよ』
そう言って、マスターはグラスを一つ用意した。
『今日は取っておきのワインがあるんだ。付き合ってくれるか?』
『ええ。私、ワイン大好きです』
マスターが開けたのは、当時まだ日本ではそれほど出回っていなかったヴィンテージの赤ワインだった。
『蓉子ちゃんと出会えた記念だ』
そう言って、甘い笑みを浮かべながらグラスを渡した。
『乾杯』
『乾杯』
グラスが静かに触れ合った。
『今日は店、どうだった?』
『今日もすごく混んでいて、もうヘトヘトです』
『結さんはいつもいっぱいだって聞いてるよ。蓉子ちゃんも頑張ってるみたいだな』
『そんな……。でも、確かにだいたいいつも満席で、落ち着かないくらいです』
『蓉子ちゃんは、もう何年くらいになるんだ?』
『銀座に来てからは1年くらいです。たまたまアルバイト情報誌で見つけて入ったんです。その頃は昼間の仕事もしていて……まあ、いろいろ事情があって』
そこで蓉子の声が少し小さくなった。
『どうした? 急に暗い顔して』
『いえ……』
蓉子はグラスを見つめた。
『マスターと話していると、なんだか安心してしまって。生い立ちから全部話してしまいそうです』
『いいじゃないか。俺は聞いてみたいけどな』
その言葉に背中を押されたように、蓉子は少しずつ自分のことを話し始めた。
ワインの酔いも手伝っていたのかもしれない。
『実は私、バツイチで子供もいるんです』
『そうか……』
『銀座に来る少し前に別れてしまって。生活もあるし、思い切って夜の世界に飛び込んだんです』
一度話し始めると、言葉は次々に出てきた。
『最初は私に勤まるのかなって心配だったんです。でも実際に働いてみたら、意外と楽しくて……。もしかしたら私、こういう仕事が向いていたのかなって。昼間の仕事も辞めて、今は夜だけです』
マスターは黙って聞いていた。
そして、ふっと笑った。
『夜の世界に来る女には、みんな何かしら事情があるもんさ』
『そうなんですか?』
『まあな。海外旅行したいから夜働きたいなんて、気楽な理由の子もいるけどさ』
マスターは笑いながら続けた。
『中には、歯の矯正に何百万もかかるから昼も夜も働きたいなんて子もいる。そりゃ、まず歯の矯正をどうにかしろって話だけどな』
『ふふっ』
蓉子も思わず笑った。
その何気ない会話が心地よかった。
この人には、何でも話せるような気がする。
そう思った、その時だった。
マスターの表情が変わった。
それまでの柔らかな笑顔が消え、蓉子をまっすぐ見つめた。
『蓉子ちゃん』
『はい?』
『いきなりなんだけど……うちに来ないか?』
『えっ……?』
思わず聞き返した。
『先月、チーママが辞めたんだ。今、困っていてな』
『私が……ですか?』
『そうだよ』
蓉子は手にしていたグラスを見つめた。
嬉しい。
そう思った。
でも、それ以上に戸惑った。
『私、まだ銀座に来て年くらいですよ。お客様を持っているわけでもないし……』
顔を上げると、マスターは穏やかな表情でこちらを見ていた。
『こんな私で……いいんですか?』
その問いに、マスターはすぐには答えなかった。
ほんの一瞬――。
蓉子には、その沈黙が妙に長く感じられた。
そしてその夜、蓉子はまだ知らなかった。
この「甘い誘い」が、これから先の自分の運命を少しずつ変えていくことを。