【連載小説】第116話 甘い誘い

【連載小説】第116話 甘い誘い

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『もしもし、蓉子ちゃん? 真田だけど、まだ仕事中?』

『マスター、こんばんは。いえ、今終わって駅に向かっているところです』

『そうか、間に合ったみたいだな。今日これから俺の店に来ないか?
今、誰もいないんだ。少し話したいことがあってさ』

『今からですか? 私、神奈川に住んでいるので遠いんです。終電がなくなったら帰れなくなりますから……』

『俺が送っていくよ。心配しなさんな。来いよ、待ってるから』

『……分かりました。じゃあ、すぐに行きますね』

電話を切ったあと、蓉子は少しだけ胸を高鳴らせた。

マスターは何の話をするのだろう。

それに――。

蓉子自身、マスターと初めて出会ったあの日から、なぜかこの人のことが気になっていた。

仕事の顔しか知らない。

だからこそ、一度ゆっくり話してみたいと思っていたのだ。

『クラブ ビー』へ急いだ。


『こんばんは……』

恐る恐るドアを開けると、店内にはマスターが一人だけいた。

カウンターに座り、水割りを静かに飲んでいる。

背中には、ほんの少しだけ愁いがあった。

その姿を見た瞬間、蓉子の胸が理由もなくドキッとした。

店は銀座6丁目、コリドー街にも近い場所にある。

少し古びたビルの地下にあり、広さは25坪ほど。

入口を入ると右手に大理石を一面に使ったカウンターがあり、店内は重厚で落ち着いた雰囲気にまとめられていた。

ただ、地下ということもあり、雨の日にはどこか空気が澱む。

それでも地下の店には、表通りとは違う隠れ家のような魅力があった。

『おう、帰る途中に呼び出して悪かったな』

『いえ。帰ったところで寝るだけですから大丈夫ですよ。それより……お話って?』

『まあ、まずここに座れよ』

そう言って、マスターはグラスを一つ用意した。

『今日は取っておきのワインがあるんだ。付き合ってくれるか?』

『ええ。私、ワイン大好きです』

マスターが開けたのは、当時まだ日本ではそれほど出回っていなかったヴィンテージの赤ワインだった。

『蓉子ちゃんと出会えた記念だ』

そう言って、甘い笑みを浮かべながらグラスを渡した。

『乾杯』

『乾杯』

グラスが静かに触れ合った。

『今日は店、どうだった?』

『今日もすごく混んでいて、もうヘトヘトです』

『結さんはいつもいっぱいだって聞いてるよ。蓉子ちゃんも頑張ってるみたいだな』

『そんな……。でも、確かにだいたいいつも満席で、落ち着かないくらいです』

『蓉子ちゃんは、もう何年くらいになるんだ?』

『銀座に来てからは1年くらいです。たまたまアルバイト情報誌で見つけて入ったんです。その頃は昼間の仕事もしていて……まあ、いろいろ事情があって』

そこで蓉子の声が少し小さくなった。

『どうした? 急に暗い顔して』

『いえ……』

蓉子はグラスを見つめた。

『マスターと話していると、なんだか安心してしまって。生い立ちから全部話してしまいそうです』

『いいじゃないか。俺は聞いてみたいけどな』

その言葉に背中を押されたように、蓉子は少しずつ自分のことを話し始めた。

ワインの酔いも手伝っていたのかもしれない。

『実は私、バツイチで子供もいるんです』

『そうか……』

『銀座に来る少し前に別れてしまって。生活もあるし、思い切って夜の世界に飛び込んだんです』

一度話し始めると、言葉は次々に出てきた。

『最初は私に勤まるのかなって心配だったんです。でも実際に働いてみたら、意外と楽しくて……。もしかしたら私、こういう仕事が向いていたのかなって。昼間の仕事も辞めて、今は夜だけです』

マスターは黙って聞いていた。

そして、ふっと笑った。

『夜の世界に来る女には、みんな何かしら事情があるもんさ』

『そうなんですか?』

『まあな。海外旅行したいから夜働きたいなんて、気楽な理由の子もいるけどさ』

マスターは笑いながら続けた。

『中には、歯の矯正に何百万もかかるから昼も夜も働きたいなんて子もいる。そりゃ、まず歯の矯正をどうにかしろって話だけどな』

『ふふっ』

蓉子も思わず笑った。

その何気ない会話が心地よかった。

この人には、何でも話せるような気がする。

そう思った、その時だった。

マスターの表情が変わった。

それまでの柔らかな笑顔が消え、蓉子をまっすぐ見つめた。

『蓉子ちゃん』

『はい?』

『いきなりなんだけど……うちに来ないか?』

『えっ……?』

思わず聞き返した。

『先月、チーママが辞めたんだ。今、困っていてな』

『私が……ですか?』

『そうだよ』

蓉子は手にしていたグラスを見つめた。

嬉しい。

そう思った。

でも、それ以上に戸惑った。

『私、まだ銀座に来て年くらいですよ。お客様を持っているわけでもないし……』

顔を上げると、マスターは穏やかな表情でこちらを見ていた。

『こんな私で……いいんですか?』

その問いに、マスターはすぐには答えなかった。

ほんの一瞬――。

蓉子には、その沈黙が妙に長く感じられた。

そしてその夜、蓉子はまだ知らなかった。

この「甘い誘い」が、これから先の自分の運命を少しずつ変えていくことを。
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