毎年、10月の下旬になると、銀座のクラブでは一斉にハロウィンパーティーが始まる。
いつもの銀座とは、少しだけ空気が違う。
並木通りを歩けば、魔女やメイド、猫耳をつけた女の子たちが、まるでそれが当たり前であるかのような顔で歩いている。
普段なら、和服やドレス姿で歩く女性たちが、この日ばかりは大胆な仮装をして夜の街を彩っていた。
『クラブ 結』でも、毎年恒例のハロウィンパーティーを開催していた。
女の子たちは、それぞれ魔女やメイド、さまざまな衣装に着替える。
店には仮装用のグッズも用意され、お客様までウサギの耳をつけている。
昼間の銀座しか知らない人が見たら、とても同じ街とは思えないだろう。
仕事の話をしながら、頭にはウサギの耳。
真剣な顔で商談の話をしているのに、隣には魔女。
そんな奇妙で、どこか滑稽な夜だった。
でも、そんな非日常を楽しめるのも、夜の銀座ならではなのかもしれない。
その年、美月は少しだけ冒険してみようと思った。
いつもなら無難な衣装を選ぶところだが、たまには少しきわどいものも面白い。
そう思って用意したのが――バニーガールの衣装だった。
そして、その衣装に真っ先に手を伸ばしたのが、新人の茜だった。
『ママ、これがいい!』
そう言って、茜は嬉しそうに衣装を手に取った。
着替えて出てきた姿を見て、美月は思わず笑ってしまった。
『茜ちゃん、それ似合うけど……そんなに肌を出して大丈夫なの?』
すると茜は、少しも恥ずかしがる様子もなく笑った。
『ママ、何言ってるんですか? ハロウィンですよ! 奇抜なほうがいいじゃないですか』
そして、くるりと一回転してみせた。
『それに私、肌を出すの嫌いじゃないですから!』
『あら、そうなの?』
『はい!』
屈託なく笑う茜。
その笑顔を見ていると、美月まで明るい気持ちになった。
『Club LUNA』のことで、少し心が重くなっていた美月にとって、茜は不思議な存在だった。
何か特別なことをしてくれるわけではない。
ただ、そこにいるだけで空気が明るくなる。
笑っている茜を見ていると、
――まあ、いろいろあるけど、頑張ろう。
そんな気持ちになれた。
美月は、そんな茜が可愛くて仕方がなかった。
けれど、茜の話を聞けば聞くほど、美月の胸は少し痛んだ。
*
茜は地方から東京に出てきた女性だった。
住んでいるのは、銀座からそれほど遠くない場所。
けれど、銀座の華やかなイメージとはかけ離れた、六畳一間の小さなアパートだった。
しかも、その小さな部屋で猫と一緒に暮らしている。
音楽大学を卒業しているとはいえ、昼間のアルバイトと劇団の活動だけでは、それほど大きな収入にはならない。
銀座の仕事も毎日あるわけではない。
すべてを合わせても、生活はぎりぎりだという。
銀座の女性と聞くと、
『きっと麻布あたりの高級マンションに住んでいるんでしょう?』
そんなイメージを持つ人もいる。
けれど、それはほんの一部の女性の話だった。
実際には、埼玉や千葉などから電車を乗り継いで銀座まで通っている女性も少なくない。
華やかな銀座の街の中にいても、彼女たちの暮らしまで華やかとは限らない。
むしろ、見えないところでは、みんなそれぞれの生活を抱えていた。
茜もその一人だった。
そんな茜の口癖がある。
『年末が近づくと、決まってこう言うのだ。
来年こそ、絶対いい人見つけるぞ!』
まるで年末の恒例行事のようだった。
『茜ちゃん、毎年言ってない?』
美月が笑うと、
『今年こそですよ!』
茜も笑う。
その顔には、本気なのか冗談なのか分からないほどの明るさがあった。
けれど、美月には分かっていた。
茜は、本当に結婚したかったのだ。
誰かと一緒に暮らして、家庭を持って、普通の幸せを手に入れたい。
そんな願いを、ずっと持っていた。
そして、そんな茜にも――
とうとうロマンスの神様が近づいてきた。
*
その男性は日本人だった。
ただ、日本ではなく台湾に住んでいて、そこで事業をしているという。
背が高くて、かなり素敵な男性らしい。
茜は、いつになく嬉しそうだった。
『ママ、今度会いに行ってくる!』
『台湾まで?』
『うん!』
『大丈夫なの?』
『大丈夫、大丈夫!』
茜は笑った。
そのために一生懸命お金を貯めた。
そして、とうとう台湾まで会いに行った。
まさに強行突破だった。
三泊の予定で、遠い国まで一人で会いに行く。
それだけ聞けば、美月にも茜の気持ちが分かった。
きっと、ものすごく楽しみにしているのだろう。
もしかしたら、この人が運命の人かもしれない。
そんな期待を胸いっぱいに抱えて、台湾へ向かったのだと思う。
ところが――
帰国した茜は、いつもの茜ではなかった。
あれほど明るかった顔から、笑顔が消えていた。
『茜ちゃん、彼に会えたの?』
美月が聞くと、茜は少し俯いた。
『うん……会えたのは会えたんだけど』
『どうだった?』
『それが……』
茜は少し黙ってから言った。
『食事を一回しただけなの』
『えっ?』
美月は思わず聞き返した。
『3泊したんでしょう?』
『うん』
『じゃあ、その3日間……?』
『うん。でも、会ったのはその1回だけ』
美月は言葉を失った。
3泊して、たった一度の食事。
それ以上の時間を、一緒に過ごすことはなかったという。
『それじゃあ……何のために台湾まで行ったのか分からないじゃない』
美月がそう言うと、茜は力なく笑った。
『そうですよね』
そして、小さな声で続けた。
『私の片思いだから仕方ないんだけど……』
そこで言葉が止まった。
『そこまで邪険にされるとは、思ってなかったの』
その目が、少し潤んでいた。
『茜ちゃん……』
『頭では分かってるの。もう諦めたほうがいいって』
『だったら、もう他の人を探したら?』
『うん……』
茜は頷いた。
けれど、すぐに首を横に振った。
『そうと分かっていても……なかなか忘れられないのよね』
とうとう、目から涙がこぼれそうになった。
その日の茜は、仕事にならなかった。
いつものように笑うこともできず、歌を歌うこともなかった。
美月はそんな茜を見ながら、何も言えなかった。
第3者なら、簡単に言える。
『そんな恋、もう忘れなさい』
『時間の無駄よ』
きっと、それが正しい。
けれど、人は正しいことだけでは生きられない。
好きになってしまった人を、
『もうやめなさい』
と言われて、はい、そうします、と心から切り替えられるほど、人間は器用ではない。
頭では終わっている恋でも、
心だけが、まだその場所に残っている。
いつか振り向いてくれるかもしれない。
いつか何かが変わるかもしれない。
そんな小さな期待を、なかなか手放せない。
美月は、茜を見ながら思った。
恋をしている人は、夢の中にいる。
そして、その夢から出るには、自分自身が目を覚ますしかない。
どれだけ周りが声をかけても、代わりに目を覚ましてあげることはできない。
美月には、それがもどかしかった。
そして、このときはまだ知らなかった。
台湾での失恋は――
茜の人生に訪れる、いくつもの出来事のほんの始まりに過ぎなかったことを。