2軒目の店を出そう。
そう決めてから、美月の頭の中は新しい店のことでいっぱいだった。
物件はほぼ決まった。
あとは、この店を任せる人を探さなければならない。
そんな時だった。
『クラブ 結』の常連客で、IT関係の仕事をしている棚橋さんから、思いがけない話が出た。
棚橋さんはいつも会社の部下を連れて店に来る人で、美月とは長い付き合いだった。
『ママ、ちょっと知り合いの女の子が2人いるんだけどさ。今、お店探してるみたいなんだ。紹介してもいいかな?』
『珍しいわね。棚橋さんがそんなこと言うなんて』
美月は笑った。
『今、結では募集してないんだけど……実はね、近いうちに2軒目を出そうと思ってるの』
『えっ、2軒目?』
棚橋さんは目を丸くした。
『ママ、すごいじゃないか。やり手だね』
『そんな大げさなものじゃないわよ。でも、そのお店を任せられるママ候補と、女の子を探しているところなの』
『なるほど。それなら話はちょうどいいかもしれないな』
『それで、その2人ってどんな子なの?』
『2人とも銀座の店で働いてたんだけど、そこが今月いっぱいで閉めることになってね。それで次の店を探してるんだ』
そこで棚橋さんは少し間を置いた。
『紗和ちゃんっていう子がいるんだけど、かなりお客さんを持ってるみたいだよ』
『えっ、本当?』
美月の瞳が一瞬輝いた。
『ぜひ紹介してほしいわ』
『もう1人は紬ちゃんっていう子で、紗和ちゃんのヘルプみたいな感じかな』
『そうなの』
『ただな……』
棚橋さんの声が少し低くなった。
『紗和ちゃん、いい子ではあるんだけど、ちょっとクセが強いんだよ』
『クセが強い?』
『まあ、かなり個性的っていうか……。まだ28歳なんだけど、相当頑張らないと言うことを聞いてくれないタイプかもしれない』
美月は少し考えた。
けれど、
「お客様をたくさん持っている」
その言葉が、ほかのすべてを打ち消してしまった。
『そうですか。でも、1軒任せるとなると、やっぱりある程度お客様を持っていて、しっかりした子のほうがいいものね』
『まあ、ここであれこれ言うより、一度会ってみたら?』
『そうね。棚橋さん、ぜひお願いします』
『分かった。2人の都合を聞いて連絡するよ』
そして最後に、棚橋さんは笑いながら言った。
『ただ……後で「ひどい子だったわ」なんて言わないでくれよ』
『あら、そんなこと言わないわよ』
美月も笑った。
けれど――
電話を切ったあと、なぜかその言葉だけが少し引っかかった。
棚橋さんは笑っていた。
けれど、その目は笑っていなかったような気がした。
それでも美月は、深く考えなかった。
むしろ、胸は期待で膨らんでいた。
お客様をたくさん持っているママ候補。
2軒目の店を始めるには、これ以上ない話のように思えた。
数日後。
棚橋さんから面接の日が決まったと連絡が入った。
美月は、どんな女性なのだろうと興味津々で待っていた。
そして、その夜。
『こんばんは』
最初に入ってきたのが紗和だった。
小柄で、まだ28歳という年齢の若さがあった。
けれど、その雰囲気には年齢以上の強さがあった。
物怖じする様子もなく、堂々としている。
その後ろから、紬が静かに入ってきた。
こちらは対照的に、穏やかで控えめな印象だった。
『今日は時間を作ってくれてありがとう。紗和ちゃんね?棚橋さんから聞いてるわよ。お客様をたくさん持っている、すごい女性だって』
『そんなことないですよ』
紗和は美月の顔を見ることもなく、足を組んだ。
『棚橋さんが大げさに言ってるだけじゃないかな。まあ……いないわけでもないけど』
そう言いながら、まるで自分の店でも見るように、店内をゆっくり見回している。
美月は、ほんの少し話しただけで、今まで会ったことのないタイプだと感じた。
正直に言えば、わずかな違和感もあった。
けれど、その違和感よりも、
「お客様を持っている」
という事実のほうが大きかった。
『紬ちゃんも今日はありがとう。紗和ちゃんとは長いお付き合いなの?』
『はい。もう3年くらいになります』
紬は、美月の目をまっすぐ見て話した。
『紗和ちゃんと一緒だと頼りになるし……守ってくれる感じがして。今回も一緒に働けたらと思って、棚橋さんにお願いしたんです』
その声は小さかった。
けれど、不思議な魅力があった。
男性なら、思わず応援したくなるような女性だった。
美月は一瞬、
――紗和ちゃんではなく、紬ちゃんだけ結に来てもらえないかしら。
そんなことまで考えた。
でも、今日は新しい店の話をするために会ったのだ。
気持ちを切り替えた。
『それでね、今日2人に来てもらったのは、このお店の募集じゃないの』
『はい?』
紗和が初めて、美月のほうをしっかり見た。
『実はもう1軒、新しいお店を出そうと思っているの。そのお店を任せるママを探しているのよ』
その瞬間だった。
紗和の表情が変わった。
『へえ……私にですか?』
『そう。まだ正式に契約したわけじゃないけど、ほとんど決まっているようなものよ』
『どんなお店なんですか?』
さっきまで椅子に深く座っていた紗和が、少し身を乗り出した。
『広さは今の結と同じくらい。カラオケも置いて、もう少しカジュアルな雰囲気のお店にしようと思っているの』
『いいじゃないですか』
紗和の目が輝いた。
『そのお店、見ることできます?』
『もちろん。正式に決まったら案内するわ』
『ぜひ見せてください』
『紬ちゃんも一緒にね』
『はい』
紬が小さく頷いた。
その時、美月は心の中で何度も迷った。
――紬ちゃんだけ、結で働いてもらえないかしら。
けれど、今は新しい店が先だった。
話は、怖いくらいにとんとん拍子に進んでいった。
物件が決まり、店の形が見え始め、人も見つかりそうになった。
美月は、ようやく2軒目の夢が現実になると思っていた。
あの時の美月には、それが幸運にしか見えなかった。
棚橋さんの言葉も。
紗和の違和感も。
そして、胸の奥に生まれた小さな引っかかりも。
すべて、新しい店への期待の中に埋もれていった。
人は、自分が望んでいるものが目の前に現れると、そこに隠れている危うさを見ようとしなくなる。
それが運命の扉なのか。
それとも――
自分で開けてしまった、人生の落とし穴なのか。
その時の美月には、まだ分からなかった。