【連載小説】第121話 すれ違った別れ

【連載小説】第121話 すれ違った別れ

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それは、思いがけず訪れた。

美月にとっても、蓉子にとっても。

まだ誰も知らなかった。

この一本の電話が、二人の関係を大きく変えてしまうことを――。

その日、蓉子は何度も携帯電話を手に取っては置いた。

美月ママに話さなければならない。

そう思いながらも、いざ電話をかけようとすると、なぜか指が止まってしまう。

まだ銀座に来て一年あまり。

右も左も分からなかった自分を受け入れてくれたのは『クラブ 結』だった。

美月ママにも世話になった。

店の女性たちにも、いろいろなことを教えてもらった。

それなのに――。

自分から店を辞めると言うのだ。

蓉子は小さく息を吐くと、意を決して電話をかけた。

『あっ、ママですか? あの……今、大丈夫ですか?』

『あら、蓉ちゃん? おはよう。こんな時間に珍しいじゃない?』

『あの……突然なんですが、お店を辞めたいんです』

蓉子は迷っていた時間が嘘のように、一気に言葉を口にした。

電話の向こうが、一瞬静かになった。

『もしもし? 蓉ちゃん、今なんて言ったの?』

『お店を……辞めたいんです』

『何? いきなりどうしたの?』

美月の声が少し大きくなった。

『それが、あるお店で私にお店を任せてもらえるという話があって……。やってみようかなと思って、もう返事をしちゃったんです』

『えっ……?』

美月は言葉を失った。

少し前には奈津子が辞めると言ってきた。

そして今度は、頼りにしていた蓉子まで。

あまりにも突然だった。

『うそでしょ……。ショックだわ。そんな急に言われても困るわよ』

美月の声には、隠しきれない動揺があった。

『だって、蓉ちゃんはまだ入って一年くらいでしょう? やっと仕事を覚えて、これからって時じゃない』

『本当にすみません。でも、結より大きなお店だし、私にとってもやりがいがあるかなって思って……』

『もう、決めたことなの?』

その声を聞いた瞬間、蓉子は少しだけ胸が痛んだ。

けれど、ここまで来て後戻りするつもりはなかった。

『……はい』

美月はしばらく黙っていた。

本当なら、蓉子の新しい挑戦を応援してあげればいい。

そう思う自分もいた。

だが、その気持ちより先に、悔しさが込み上げてきた。

奈津子に続いて、蓉子まで。

どうして、こんなことが続くのだろう。

『私はね……』

美月がゆっくり口を開いた。

『私は、蓉ちゃんにはこの先、お店を一軒任せてもいいくらい期待していたのよ』

その言葉に、蓉子の胸が少し揺れた。

そんなふうに思ってくれていたとは知らなかった。

けれど今さら、どうすることもできない。

『 じゃあ、今月いっぱいということでいいですよね?』

蓉子のその言葉が、美月の心に突き刺さった。

もう決めてしまったのだ。

引き止めたところで、蓉子の心はすでに別の店に向かっている。

そう思った瞬間、美月の中で何かが切れた。

『……そう』

短い沈黙のあと、美月は言った。

『もう決めたのなら仕方ないわね』

そして――。

『悪いけど、もう今日で辞めていいわ』

『えっ……?』

蓉子は思わず声を失った。

『今日で……ですか?』

『ええ。これから別のお店に行くと決めたのなら、もう無理に出てこなくていいわ。頑張って』

美月はそう言うと、そのまま電話を切った。

ツー、ツー、ツー……。

無機質な音だけが、蓉子の耳に残った。

しばらく携帯電話を見つめたまま、蓉子は動けなかった。

こんなことになるとは思っていなかった。

せめて、今月いっぱいは普通に働けると思っていた。

銀座の世界では、店を辞めて別の店へ移ると決まった瞬間から、これまでとは立場が変わる。

昨日まで仲間だった女性が、明日からはライバルの店に立つことになるかもしれない。

お客様を連れて行かれてしまうかもしれない。

そんな警戒心から、辞めると伝えたその日を最後に、店に出なくていいと言われることも珍しくなかった。

けれど、銀座に来てまだ日が浅い蓉子には、そんな暗黙のルールなど分かるはずもなかった。

いきなり電話を切られ、その日から店にも来なくていいと言われた。

蓉子の胸には、次第に別の感情が湧き上がってきた。

――美月ママって、こんな人だったの?

最後は、こんなふうに終わってしまうの?

『……もういいわ』

蓉子は誰に言うでもなく、つぶやいた。

『こうなったら、銀座でも有名になってやる』

美月ママの助けなんて当てにしない。

自分の力で、お店を成功させてみせる。

その時の蓉子には、それがこれからの人生を変える大きな決断になることなど、まだ分からなかった。

そしてその夜――。

『クラブ結』では、美月が一人、静かに店の中を見渡していた。

奈津子が辞めた。

そして、蓉子も辞めた。

二人が座っていた場所が、今夜は妙に広く感じる。

店を始めてから、決して順風満帆だったわけではない。

苦しいこともあった。

思うようにいかないこともあった。

それでも、美月はいつも前だけを見てきた。

けれど今夜だけは違った。

蓉子の最後の言葉。

そして、自分が言ってしまった言葉が何度も頭の中を巡った。

――もう今日で辞めていいわ。

あんな言い方をするつもりではなかった。

もう少し違う言葉があったのではないか。

分かっていた。

けれど、あの時はどうしても素直になれなかった。

美月の目から、ぽろりと涙がこぼれた。

一度こぼれると、なぜか止まらなかった。

悲しいからなのか。

不安だからなのか。

自分でも分からない。

ただ――。

悔しかった。

信じていた女性たちが、自分の店から去っていく。

それを笑顔で見送るほど、あの頃の美月はまだ大人になりきれていなかった。

2人とも、それぞれの未来を選んだだけだった。

けれどその時の2人には、

相手の気持ちを理解する余裕がなかった。

こうして2人は、

少しの誤解と、

少しの意地と、

そして、それぞれの譲れない思いを抱えたまま――

すれ違った。

それが、蓉子と美月の

すれ違った別れだった。
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