それは、思いがけず訪れた。
美月にとっても、蓉子にとっても。
まだ誰も知らなかった。
この一本の電話が、二人の関係を大きく変えてしまうことを――。
その日、蓉子は何度も携帯電話を手に取っては置いた。
美月ママに話さなければならない。
そう思いながらも、いざ電話をかけようとすると、なぜか指が止まってしまう。
まだ銀座に来て一年あまり。
右も左も分からなかった自分を受け入れてくれたのは『クラブ 結』だった。
美月ママにも世話になった。
店の女性たちにも、いろいろなことを教えてもらった。
それなのに――。
自分から店を辞めると言うのだ。
蓉子は小さく息を吐くと、意を決して電話をかけた。
『あっ、ママですか? あの……今、大丈夫ですか?』
『あら、蓉ちゃん? おはよう。こんな時間に珍しいじゃない?』
『あの……突然なんですが、お店を辞めたいんです』
蓉子は迷っていた時間が嘘のように、一気に言葉を口にした。
電話の向こうが、一瞬静かになった。
『もしもし? 蓉ちゃん、今なんて言ったの?』
『お店を……辞めたいんです』
『何? いきなりどうしたの?』
美月の声が少し大きくなった。
『それが、あるお店で私にお店を任せてもらえるという話があって……。やってみようかなと思って、もう返事をしちゃったんです』
『えっ……?』
美月は言葉を失った。
少し前には奈津子が辞めると言ってきた。
そして今度は、頼りにしていた蓉子まで。
あまりにも突然だった。
『うそでしょ……。ショックだわ。そんな急に言われても困るわよ』
美月の声には、隠しきれない動揺があった。
『だって、蓉ちゃんはまだ入って一年くらいでしょう? やっと仕事を覚えて、これからって時じゃない』
『本当にすみません。でも、結より大きなお店だし、私にとってもやりがいがあるかなって思って……』
『もう、決めたことなの?』
その声を聞いた瞬間、蓉子は少しだけ胸が痛んだ。
けれど、ここまで来て後戻りするつもりはなかった。
『……はい』
美月はしばらく黙っていた。
本当なら、蓉子の新しい挑戦を応援してあげればいい。
そう思う自分もいた。
だが、その気持ちより先に、悔しさが込み上げてきた。
奈津子に続いて、蓉子まで。
どうして、こんなことが続くのだろう。
『私はね……』
美月がゆっくり口を開いた。
『私は、蓉ちゃんにはこの先、お店を一軒任せてもいいくらい期待していたのよ』
その言葉に、蓉子の胸が少し揺れた。
そんなふうに思ってくれていたとは知らなかった。
けれど今さら、どうすることもできない。
『 じゃあ、今月いっぱいということでいいですよね?』
蓉子のその言葉が、美月の心に突き刺さった。
もう決めてしまったのだ。
引き止めたところで、蓉子の心はすでに別の店に向かっている。
そう思った瞬間、美月の中で何かが切れた。
『……そう』
短い沈黙のあと、美月は言った。
『もう決めたのなら仕方ないわね』
そして――。
『悪いけど、もう今日で辞めていいわ』
『えっ……?』
蓉子は思わず声を失った。
『今日で……ですか?』
『ええ。これから別のお店に行くと決めたのなら、もう無理に出てこなくていいわ。頑張って』
美月はそう言うと、そのまま電話を切った。
ツー、ツー、ツー……。
無機質な音だけが、蓉子の耳に残った。
しばらく携帯電話を見つめたまま、蓉子は動けなかった。
こんなことになるとは思っていなかった。
せめて、今月いっぱいは普通に働けると思っていた。
銀座の世界では、店を辞めて別の店へ移ると決まった瞬間から、これまでとは立場が変わる。
昨日まで仲間だった女性が、明日からはライバルの店に立つことになるかもしれない。
お客様を連れて行かれてしまうかもしれない。
そんな警戒心から、辞めると伝えたその日を最後に、店に出なくていいと言われることも珍しくなかった。
けれど、銀座に来てまだ日が浅い蓉子には、そんな暗黙のルールなど分かるはずもなかった。
いきなり電話を切られ、その日から店にも来なくていいと言われた。
蓉子の胸には、次第に別の感情が湧き上がってきた。
――美月ママって、こんな人だったの?
最後は、こんなふうに終わってしまうの?
『……もういいわ』
蓉子は誰に言うでもなく、つぶやいた。
『こうなったら、銀座でも有名になってやる』
美月ママの助けなんて当てにしない。
自分の力で、お店を成功させてみせる。
その時の蓉子には、それがこれからの人生を変える大きな決断になることなど、まだ分からなかった。
そしてその夜――。
『クラブ結』では、美月が一人、静かに店の中を見渡していた。
奈津子が辞めた。
そして、蓉子も辞めた。
二人が座っていた場所が、今夜は妙に広く感じる。
店を始めてから、決して順風満帆だったわけではない。
苦しいこともあった。
思うようにいかないこともあった。
それでも、美月はいつも前だけを見てきた。
けれど今夜だけは違った。
蓉子の最後の言葉。
そして、自分が言ってしまった言葉が何度も頭の中を巡った。
――もう今日で辞めていいわ。
あんな言い方をするつもりではなかった。
もう少し違う言葉があったのではないか。
分かっていた。
けれど、あの時はどうしても素直になれなかった。
美月の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
一度こぼれると、なぜか止まらなかった。
悲しいからなのか。
不安だからなのか。
自分でも分からない。
ただ――。
悔しかった。
信じていた女性たちが、自分の店から去っていく。
それを笑顔で見送るほど、あの頃の美月はまだ大人になりきれていなかった。
2人とも、それぞれの未来を選んだだけだった。
けれどその時の2人には、
相手の気持ちを理解する余裕がなかった。
こうして2人は、
少しの誤解と、
少しの意地と、
そして、それぞれの譲れない思いを抱えたまま――
すれ違った。
それが、蓉子と美月の
すれ違った別れだった。