【連載小説】第137話 疑いの影

【連載小説】第137話 疑いの影

記事
小説

ある日、美月は夕子ママの店の伊藤店長と、喫茶店で会っていた。

伊藤とは以前から時々話をする間柄だった。

店の女の子のことや、経営のこと。

同じ銀座で店を持つ者同士だからこそ話せることもあり、伊藤は何かと美月に相談を持ちかけてくることがあった。

その日も、ある女の子を辞めさせるべきかどうかという相談を終え、

『じゃあ、そろそろ店に戻ろうかしら』

と美月が席を立とうとした、その時だった。

伊藤が、珍しく声を落とした。

『美月ママ……ちょっと内緒の話があるんだけど、時間大丈夫?』

『えっ? 何? 何かあったの?』

「内緒」と言われただけで、人は急に耳を澄ませてしまう。

美月も思わず前のめりになった。

伊藤は周囲を気にしながら、小さな声で話し始めた。

『ここだけの話なんだけど……夕子ママが具合を悪くして、ちょっと困ったことになってるんだ』

『夕子ママが? どこが悪いの?』

『それは具体的には言えないんだけど……もう、あまりお店に出られないかもしれないんだ』

『そんなに? それじゃ、入院するの?』

『いや、そういうわけじゃないみたいだ。薬を飲みながら、これから様子を見ていくって感じらしい』

『それじゃ、お薬を飲めば治るってことなの?』

『いや……それもまだ分からないみたいだ。これからいろいろ検査をして、その結果を見ながら治療していくらしい。ただ、今の医学では進行を遅らせるのが精一杯らしくて……』

美月は黙り込んだ。

『大変なことになったわね……。夕子ママ、まだ若いのに』

伊藤は、しばらくコーヒーカップを見つめていた。

『俺一人で抱えるのは、正直、責任が重すぎるんだ』

そして、少し困ったように笑った。

『それに、女性の気持ちって男じゃ分からないところもあるだろ。だから、美月ママに少しアドバイスをもらえたらと思って……。それで、この話をしたんだ』

美月は考えながら答えた。

『アドバイスって言っても、私も病気のことは分からないし、何をどう言っていいのかも分からないわ。ただ……伊藤さんの肩に、お店がかかっているのは確かね』

『あまりプレッシャーかけないでくれよ』

伊藤は苦笑した。

けれど、その表情の奥には隠しきれない不安があった。

夕子ママに、

『お店のことは私に任せてください』

そう言ったものの――

オーナーママが不在になった店が、これからどうなっていくのか。

店というものは、ただ女の子とお客様がいれば成り立つものではない。

そこには、誰かが軸になっていなければならない。

その軸を失った店が、まるで糸の切れた凧のように、どこへ飛んでいくのか分からなくなる。

そう考えただけで、伊藤の背中には冷たい汗が流れた。

その夜。

美月は自宅の部屋でくつろぎながらも、昼間の伊藤との会話を思い出していた。

そして、ふと茜のことを思った。

以前、茜は狭い部屋から、少し広くて明るい部屋へ引っ越した。

その小さな決断が、彼女の人生を変えていった。

古い部屋に置いてきたものを過去として手放し、新しい部屋に未来を置く。

何も持っていなかった茜にとって、その空間は、幸せを迎えるための場所になった。

けれど――

夕子は違った。

何もかも手に入れたはずの女。

広く、贅沢なマンション。

美術品に囲まれた暮らし。

けれど、その豪華な空間が、今の夕子にとっては孤独を閉じ込める檻のようになっているのかもしれない。

美月は思った。

人を幸せにするのは、部屋の広さでも、物の多さでもない。

その空間を、どんな心で生きるか。

同じ「部屋」という場所でも、

心が未来を向いていれば、希望の場所になる。

心が孤独に支配されれば、どれほど豪華な場所でも、檻になってしまう。

それから、数か月が過ぎた頃。

起きてはいけないことが起こった。

夕子ママには、長年通い続けてくれている大切なお客様がいた。

鉄鋼会社の社長、野々村。

若い頃から営業のホープと言われ、地道な努力を重ねて社長にまで上り詰めた人物だった。

夕子の店には週に3度は顔を出す。

常連の中でも、まさに「常連中の常連」。

プライベートでも付き合いがあると、銀座ではもっぱらの噂だった。

そんなある日のこと。

夕子は野々村と、銀座でも有名な和食店で食事をしていた。

料理を楽しみながら、何気ない会話をしていたときだった。

野々村がふと思い出したように言った。

『そういえば、瑠璃ちゃんから最近よくメールが来るんだよ』

夕子の箸が、ほんの一瞬止まった。

『そうなの? それで、何だっていうの?』

『いや、別に世間話みたいな感じかな。とりとめのない話だよ』

『そう……』

夕子は笑った。

『どうしてかしら? 用事もないのに、そんなにメールを送るなんて変じゃない?』

野々村は苦笑した。

『こっちのセリフだよ。俺も何だろうって思ってる』

その程度の会話だった。

普通なら、

「変ね」

そう思って、その場で忘れてしまうような話だった。

けれど――

今の夕子には、それができなかった。

病気を知ってからというもの、夕子の中には、もう一人の自分がいるようだった。

普段の自分が、

「そんなこと、考えすぎよ」

と言っても、

もう一人の自分が、

「本当にそう?」

と囁いてくる。

小さな疑念が、頭の中で膨らんでいく。

そして、その夜。

夕子の中で、ひとつの答えが勝手に出来上がってしまった。

――瑠璃は、野々村さんを狙っている。

――だから、何度もメールを送っている。

――自分をアピールしているんだわ。

そう思い始めたら、もう止まらなかった。

時計を見ると、深夜だった。

それでも夕子は、スマートフォンを手に取った。

瑠璃に電話をかけた。

瑠璃は、夕子の店で十年近く働いてきた女性だった。

楽しいことも、苦しいことも一緒に乗り越えてきた。

夕子にとって、店の歴史を知る大切な存在でもあった。

こんな時間の電話に、瑠璃は驚いた。

それでも、

『こんな時間に……』

という言葉を飲み込んだ。

『はい。どうされましたか?』

『瑠璃ちゃん、遅くにごめんなさいね』

『いえ……』

夕子の声は、いつもより硬かった。

『ちょっと聞きたいことがあるの。野々村さんに、頻繁にメールを送っているそうじゃない』

瑠璃は少し考えてから答えた。

『ええ。少しでも売上に貢献できればと思って、送っているんです』

『売上貢献?』

夕子の声が低くなった。

『どういう意味?』

『え……私、いけなかったですか?』

そして――

夕子は、とうとう言ってしまった。

今までなら、決して口にしなかった言葉。

口にしてはいけない言葉。

『野々村さんを狙ってるんじゃないの?』

電話の向こうが、しんと静まった。

『……そんな』

瑠璃の声が震えた。

『そんな気持ちでメールを送っていたわけじゃありません』

けれど、夕子は止まらなかった。

『もう、堪らないのよね』

『……』

『野々村さんと私の関係、知っているでしょう?』

『はい……』

『なのに、横取りするような真似はやめてちょうだい』

瑠璃は何も言えなかった。

夕子は、それ以上何も言わず、電話を切った。

ガチャッ――。

無機質な音が、静かな夜の部屋に響いた。

瑠璃は、しばらく受話器を握ったまま動けなかった。

何を言われたのか。

すぐには理解できなかった。

10年。

10年もの間、夕子の店で働いてきた。

店のために。

夕子のために。

辛いときも、楽しいときも、同じ場所にいた。

それなのに――

たった1本の電話で、その積み重ねが音を立てて崩れていくようだった。

悔しかった。

悲しかった。

何より、

信じてもらえなかったことが、ただ悲しかった。

瑠璃の目から、静かな涙がこぼれた。

誰にも見られることのない夜の部屋で、

10年分の思いが、

一粒の涙になって落ちていった。

そして、この日。

夕子自身もまだ気づいていなかった。

自分を守ろうとして放った一言が、

実は、自分の周りにいる大切な人を一人ずつ遠ざけていくことになるということを。

夕子の店の崩壊は、まだ始まったばかりだった。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す