店長の伊藤が、夕子のもとを離れた。
そして、10年もの間、苦楽を共にしてきた瑠璃も、結局は店を去ることになった。
夕子の周りから、一人。
また一人。
大切な人たちが、静かにいなくなっていった。
けれど夕子には、それが自分の言葉や態度によって起きていることが、まだ見えていなかった。
むしろ――
自分を裏切る人間が増えている。
そう感じていた。
そんな頃だった。
野々村が、付き合いのある社長に誘われ、
『ここは俺の行きつけなんだ』
と言われて、『クラブ 結』を訪れた。
美月は以前から、野々村が夕子ママにとって特別なお客様だと聞いていた。
だからこそ、いつもの倍以上に気を遣った。
言葉を選び、距離感にも気を配る。
ましてや、美月は夕子が病気を抱えていることも知っていた。
銀座では、ちょっとした言葉が思わぬ形で伝わることもある。
余計なことは言わない。
変な誤解を生まない。
美月は、いつも以上に慎重に接客した。
時が過ぎその日の営業を何事もなく終えることができたことに、ほっとしていた。
――よかった。
これで終わった。
美月は、そう思っていた。
けれど――
銀座は狭い町なので野々村が結に行ったことがその夜の内に夕子の耳に入った。
そして本当の出来事は、その翌日に待っていた。
営業中のことだった。
突然、夕子から電話がかかってきた。
『美月ちゃんね。昨日、野々村さんがお店に行ったそうじゃない』
『ええ。うちのお客様が野々村さんをお連れして、いらしてくださったんです』
美月は、何の疑いもなく答えた。
ところが、夕子の声は思いのほか冷たかった。
『そう……だったら、一言くらい挨拶があってもいいんじゃないの?』
『あっ……すみません。私、うっかりしていました』
『うっかり?』
その一言に、夕子の声が鋭くなった。
『そんな言い訳、銀座じゃ通らないわよ』
『本当にすみません。これから気をつけます』
美月は素直に謝った。
それで終わると思っていた。
ところが――
『もしかして、野々村さんに名刺を渡したの?』
『はい。お渡ししましたけど……』
一瞬の沈黙。
そして、夕子の口から思いもよらない言葉が飛び出した。
『まさか……野々村さんをお客様にしようとしてるんじゃないでしょうね?』
『えっ?』
美月は耳を疑った。
『いや、そんなこと考えてないですよ』
『本当に?』
『もちろんです』
それでも夕子の疑いは消えなかった。
『野々村さんを狙ってるんじゃないの?』
『そんな……』
美月には、何が起きているのか分からなかった。
そして夕子は、ついに言ってはいけないところまで踏み込んだ。
『もう、あなたとの縁もこれまでね。もう連絡してこないでちょうだい』
ガチャ――。
電話は、一方的に切れた。
美月は、しばらくスマートフォンを手にしたまま動けなかった。
何を言われたのか。
なぜ、そこまで怒られなければならないのか。
自分は、ただ仕事をしただけだった。
何も悪いことなどしていない。
それなのに――
あまりにも突然の、理不尽な怒りだった。
美月には、夕子の変化が理解できなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
以前の夕子ママなら、笑って済ませていたようなことだった。
それから数日後。
『クラブ 結』は、10周年を迎えようとしていた。
毎年この時期になると、美月には恒例の仕事があった。
これまでお世話になった知り合いのお店へ、感謝の気持ちを込めてお赤飯を届ける。
そして、周年パーティーの案内状を渡す。
銀座には、そんな人と人とのつながりを大切にする習慣があった。
お祝いを届ければ、周年当日には白い胡蝶蘭が届く。
それが、いつもの光景だった。
今年も美月は、夕子の店へもお赤飯を届けに行った。
ところが――
店の入り口で、黒服に止められた。
『すみません。これを夕子ママに……』
美月が差し出したお赤飯を、黒服は受け取ろうともしなかった。
『結構です。持って帰ってください』
『え……』
『今日は帰ってください』
まるで門前払いだった。
美月は、何も言い返せなかった。
ただ手にしたお赤飯を抱えたまま、その場を離れた。
外へ出ると、銀座の街はいつもと変わらず華やかだった。
ネオンが輝き、人が行き交い、どこかで笑い声が聞こえる。
けれど美月の胸には、冷たいものが込み上げていた。
――やっぱり、そういうことなのね。
自分は何もしていない。
ただ、これまで通りにしていただけなのに。
それなのに、こんなふうに拒絶される。
美月は歩きながら、こぼれそうになる涙を何度もこらえた。
けれど、とうとうこらえきれなくなった。
銀座の夜に紛れるように、
美月の頬を涙が伝っていった。
その頃。
夕子の店にも、静かな夜が訪れていた。
ある寒い夜のことだった。
広い店内に、お客様は3組ほど。
決して暇な店ではない。
けれど、大きなフロアに3組しかいない光景は、どこか寂しく見えた。
そのフロアの奥には、VIPのお客様のための特別な席があった。
他の席からはあまり見えないように設計された、店の中でも特別な場所だった。
その夜、野々村が一人でやって来た。
いつもなら誰かを連れて来ることが多い。
一人で来るのは珍しかった。
夕子は、野々村と2人で話したいことがあった。
『今日は女の子はつかなくていいから』
そう言って、VIP席へ案内した。
『いらっしゃいませ。今日はお一人で、珍しいのね』
『ああ。たまには、のんびり飲みたくてね』
『そう。じゃあ、まずは乾杯しましょ』
2人はグラスを合わせた。
しばらくは、他愛のない話をしていた。
そのとき、野々村が何気なく言った。
『そういえば、この前、夕子ママの知り合いの美月ママの店に行ってきたよ』
夕子の表情が変わった。
『美月ママって、前から知っていたの?』
『いや、初めてだよ。取引先の社長が懇意にしている店らしくて、連れて行ってもらったんだ』
『そうなの……』
夕子はグラスを置いた。
『それで、美月ママはどうだったの?』
野々村は、少し眉をひそめた。
『どうだったって……何が?』
『美月ママのことよ』
『いや、どうも何も……』
野々村は苦笑した。
『取引先の社長が懇意にしている店だと言っただろ。そこのママに、特別な関心なんて普通は持たないだろう』
夕子の聞き方に、少し苛立ちを感じ始めていた。
もちろん、夕子が病気を抱えていることは聞いていた。
だからこそ、できるだけ刺激しないようにしていた。
けれど――
最近の夕子は、以前とは少しずつ違っている。
それは自分の気のせいなのだろうか。
『名刺交換したって聞いたわ』
『え?』
野々村は驚いた。
『あの店のママに聞いたのか? 銀座のクラブじゃ、初対面だったら名刺交換するのは普通だろ』
『それで……美月ママから連絡が来たの?』
『ママ……』
野々村は困ったように夕子を見た。
『どうしたんだ? さっきから美月ママのことばかり言って、ちょっと変じゃないか?』
『変じゃないわよ』
夕子の声が強くなる。
『だって、私の知らないところで、他のお店に行って楽しんだんでしょう?』
『ちょっと待ってくれよ』
野々村は、とうとうグラスを置いた。
『俺は、今日はのんびり飲もうと思って来たんだ』
そして、席を立った。
『悪いけど……今日は帰るよ』
『野々村さん……』
けれど、野々村は振り返らなかった。
そのまま足早に店を出ていった。
一人残された夕子は、しばらく動かなかった。
静かなVIP席。
さっきまでそこにいた野々村の気配だけが、妙に生々しく残っていた。
いったい、どうしたというのだろう。
今までなら、笑って済ませていたようなこと。
少し嫉妬するくらいなら、むしろ2人の関係には当たり前のことだった。
それなのに――
どうして、こんなに腹が立つのだろう。
どうして、信じられないのだろう。
夕子自身にも分からなかった。
ただ、不安だけが胸の中で膨らんでいた。
そして野々村もまた、帰りの車の中で考えていた。
――夕子ママは、いったいどうしてしまったんだ?
以前だったら、こんなことを笑って済ませていた。
それが今は、何でも真剣に怒ってくる。
何かを疑っている。
何かに怯えているようにも見える。
病気を知ったことが、夕子の心に何かをもたらしたのだろうか。
それとも、もっと別の理由があるのだろうか。
野々村には分からなかった。
ただ一つだけ――
これまでと同じ付き合いを続けていくことが、本当にいいのだろうか。
そんな考えが、初めて野々村の胸をよぎっていた。
それは、
夕子の長い人生の中で、
また一つ、大切な人との距離が開いた瞬間だった。