誰かの幸せを見届けて、ほっと安堵する夜もある。
けれど、経営者としての美月の現実は、そんな甘やかな余韻に浸っていることを許してはくれなかった。
一つの場所で幸せを見届けたその陰で――
もう一つの場所では、静かに、しかし確実に、崩壊の足音が近づいていた。
*
季節は移り、春の気配を感じる頃になっていた。
そんな、うららかな土曜日の午後。
美月の携帯電話が鳴った。
画面を見ると、紗和ママからだった。
こんな時間に紗和から電話がかかってくることは珍しい。
美月の胸に、一瞬だけ緊張が走った。
『もしもし。どうしたの?』
『ママ……こんな時間にすみません。実は、大変なことが起きました』
『えっ? 何?』
『お店に……泥棒が入ったみたいで。売上のお金が全部なくなってしまいました』
「そんな……。警察には連絡したの?』
『はい。もう連絡しました。もうすぐ来てくれると言ってました』
「昨日の売上金は? 持って帰らなかったの?』
『売上金は毎日家に持って帰って、週に一度まとめて通帳に入金していたんですけど……』
紗和の声が小さくなった。
『昨日は、女の子の誕生日でシャンパンを何本も開けて……私、かなり酔ってしまって』
『それで?』
『お客様に送ってもらったんですけど……売上金も、お店の鍵も、そのまま置いてきてしまったみたいで……』
『……』
『本当にすみません』
美月は一瞬、言葉が出なかった。
『それで、なくなったお金はいくらくらいなの?』
『一日分なので……十万円くらいだと思います』
『そう……』
美月は小さく息を吐いた。
『私もすぐそっちに向かうわ。警察の人が来たら、昨日のことをちゃんと説明してね』
『はい……』
『じゃあ、待っていて』
『すみません。本当にすみません……』
電話の向こうで、紗和は何度も謝った。
*
『Club LUNA』に着いたときには、すでに警察による実況見分が終わっていた。
そこには紗和がぽつんと一人で待っていた。
『どういうことだったの?』
美月が聞くと、紗和は昨日の出来事を話し始めた。
売上金も店の鍵も、そのまま店内に置いて帰ってしまったことを
朝、目が覚めて気がついて
慌てて銀座まで来てみると――
鍵は、確かに店に残っていた。
けれど、売上金だけが跡形もなく消えていたという。
美月は、店内を見渡した。
確かに、荒らされた形跡はない。
ドアも壊されていない。
だからといって、紗和の話が嘘だと決めつけることもできなかった。
ただ――
何かがおかしい。
美月の中で、そんな感覚だけが残った。
『酔っていたとはいえ、売上金も鍵も置いたまま帰ったのね……』
『はい……』
『あのね』
美月は静かに言った。
『お酒を飲むこと自体は悪いことじゃない。でも、お店を任されている以上、そこはちゃんとしてもらわないと困るわ』
『……はい』
紗和は俯いた。
売上金は1日分で、10万円ほど。
保険で補填できる範囲だった。
金額だけを考えれば、大きな実害が出たわけではない。
けれど、美月にとって問題はお金だけではなかった。
店を任せている人間として、それでいいのか。
その疑問が、心の中に残った。
そして、この日を境に、美月の紗和に対する不信感は、以前にも増して強くなっていった。
*
そんなことがあってから、しばらくして。
月初めになると、LUNAから前月の売上報告が届くことになっていた。
紗和は1ヶ月分の伝票と、入金済みの通帳を持ってくる。
美月はいつものように数字を確認した。
そして――
手が止まった。
『……え?』
思わず、もう一度数字を見直した。
売上が、これまでの月平均の半分ほどしかない。
しかも、少しずつ落ちたのではない。
ある時期を境に、いきなりガクンと落ちている。
『紗和ママ』
美月は顔を上げた。
『どうしたの? こんな数字、今まで見たことがないじゃない』
紗和は困ったような顔をした。
『すみません……。最近、どうしてか暇な日が多くて』
『暇な日が多いって……』
美月は伝票をもう一度見た。
『困ったわね。きついようだけど、もっと頑張ってもらわないと、お店としてやっていけないわよ』
『ええ……そうですよね』
紗和はそう答えた。
けれど、その表情には何か言いたそうなものがあった。
美月と目を合わせることなく、横を向いた。
『……』
美月は黙った。
何かある。
そんな気がしてならなかった。
数字だけの問題ではない。
美月の長年の経験が、そう告げていた。
*
それから、しばらくして。
美月はあることを決めた。
自分の目で見てみよう。
営業中の『Club LUNA』へ、突然一人で行くことにした。
事前に連絡することもしなかった。
どんな店になっているのか。
どんな空気で営業しているのか。
自分の目で確かめたかった。
夜。
美月がLUNAのドアを開けた。
『こんばんは』
店内に入った瞬間――
美月は、言葉を失った。
静かだった。
いや、静かというより――
がらんとしていた。
客の姿がない。
カウンターの中には紬ちゃん。
そして、数人の女の子たちがいた。
けれど、その顔には緊張感がなかった。
何人かが楽しそうに雑談をしている。
まるで、これからお客様を迎える店ではなく、
女の子たちが遊びに来ている場所のようだった。
美月は、その光景を黙って見つめた。
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
数字が落ちた。
お客様が減った。
そして今、目の前にあるこの空気。
偶然なのだろうか。
それとも――
美月がまだ知らない何かが、この店で起きているのだろうか。
美月は何も言わず、店内をゆっくり見渡した。
経営者としての直感が、はっきりと告げていた。
――この店は、どこかがおかしい。
そして、その違和感の正体を確かめるために、美月はもう一歩、LUNAの中へ踏み込んでいった。