茜は、美月の言葉を胸に抱えたまま、不動産屋へ向かった。
『外国にでも行こうかな』
そう言っていた自分が、ほんの数日後には、
『引っ越してみよう』
と思っている。
人生なんて、案外そんなものなのかもしれない。
大きな決断をしたわけではない。
ただ、一人の人からかけられた何気ない一言が、止まっていた心を少しだけ動かした。
美月の、
『だったら、引っ越しよ!』
という言葉が、茜にはまるで天から届いた贈り物のように感じられた。
そして、隣町に新しい部屋を見つけた。
今までの六畳一間より少し広い。
何より、窓から入る日差しが部屋の隅々まで届く。
新築というわけではない。
けれど、今まで住んでいた古いアパートとは、何もかもが違って見えた。
部屋の空気まで、新しく感じる。
窓を開けると、風が入ってくる。
朝になると、カーテンの隙間から光が差し込む。
茜は、その光を見ながら思った。
――ここなら、やり直せるかもしれない。
そして、すぐに引っ越しをした。
*
不思議なことが起きた。
あれほど暗かった茜の表情が、日を追うごとに変わっていったのだ。
少しずつ、目に光が戻ってくる。
以前のように笑うことも増えた。
美月は、その変化を見ながら不思議に思った。
引っ越しただけなのに。
住む場所を変えただけなのに。
なぜ、こんなにも人は変われるのだろう。
もしかしたら、部屋そのものが茜を変えたわけではないのかもしれない。
長い間暮らしていた部屋には、10年間一緒にいた猫との思い出が詰まっていた。
その部屋にいる限り、茜は過去から離れることができなかった。
けれど、何もない新しい部屋には、まだ思い出がない。
だからこそ、未来を置くことができる。
そして茜自身も、知らず知らずのうちに、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
――もう、可哀想な私じゃない。
――私だって、幸せになっていい。
そんな小さな意識の変化が、茜の行動を変えていった。
*
それからの茜の行動は驚くほど早かった。
以前から少し気になっていた『婚活パーティー』に参加することにしたのだ。
調べてみると、年代別、職業別、趣味別……。
世の中には、こんなにたくさんの婚活パーティーがあるのかと茜は驚いた。
あまり高望みはしない。
自分と同じくらい、あるいは少し年上。
そんな条件のパーティーを選んだ。
そして当日。
広い会場を貸し切って、男女合わせて50人ほどが集まった。
最初は、男性と女性がそれぞれ一列に並び、胸元につけた番号を確認する。
1人3分。
順番に向かい合い、自己紹介をする。
それぞれにボードが渡され、話をした相手の番号のところに印をつけていく。
たった3分で相手を知る。
普通なら緊張してしまいそうな時間だった。
けれど、そこは夜の仕事をしている茜だった。
初対面の人と話すことに、人見知りするような性格ではない。
『お仕事は何をされているんですか?』
『休日は何をしているんですか?』
『趣味は?』
気になることを次々に聞く。
自分のことも話す。
3分では足りないくらいだった。
茜自身も、その時間を楽しんでいた。
そして、自己紹介タイムが終わると、今度はフリートークになった。
会場のあちこちで、男女が自由に話し始める。
茜は、25人ほどの男性の中で、2人に好感を持った。
1人目は、それほど背は高くない。
けれど、気さくで、笑うとえくぼができる。
その笑顔が可愛らしくて、茜は気になった。
『ちょっと話してみたいな』
そう思って近づこうとした。
ところが、その男性の周りには、すでに何人もの女性が集まっている。
どうやら人気があるらしい。
茜は、少し離れたところから、その様子を見ていた。
――あぁ……。
――やっぱり私じゃダメなのかな。
ほんの少し、自信がなくなった。
そのときだった。
ふと顔を上げる。
すると――
もう一人、気になっていた男性と目が合った。
彼は、ずっと茜のほうを見ていた。
背が高い。
少し無愛想にも見える。
けれど、端正な顔立ちだった。
そして何より――
その目に、茜は惹かれた。
茜は自然を装って、彼のところへ歩いていった。
『こんにちは。こういうパーティーって、よく参加されるんですか?』
男性は少し驚いたような顔をして答えた。
『いや、今日が初めてですよ。友人が一人じゃ参加しづらいって言うから、無理やり連れてこられたんです』
『そうだったんですね。私も今回が初めてなんですよ』
話してみると、不思議だった。
最初は少し無愛想に見えたのに、言葉を交わすうちに、まるで昔から知っている人のような安心感があった。
変に気を使わない。
沈黙も苦にならない。
初対面なのに、居心地がいい。
パーティーは、そうこうしているうちに終わった。
けれど茜は、しっかりと連絡先を交換していた。
彼の名前は――
佐伯俊一。
会場を出て、自宅へ向かう。
けれど茜は、どうやって帰ってきたのか、あまり覚えていなかった。
頭の中には、ずっと佐伯の顔が浮かんでいた。
*
それから数日後。
電話が鳴った。
『もしもし、茜さん。佐伯だけど……覚えてる?』
『あっ、佐伯さん! もちろん覚えてますよ』
『今度の日曜日、デートでもしない?』
『デート……?』
茜は思わず笑ってしまった。
『嬉しいです。どこでも佐伯さんにお任せします』
電話を切ったあと、茜はまた笑った。
今どき、「デート」なんて言う人いるんだ。
そう思った。
けれど、あの少し生真面目そうな佐伯から、そんな言葉が出てくることが、かえって可愛く思えた。
そして2人は、少しずつ距離を縮めていった。
お互い、1人の時間が長かった。
だからこそ、一緒にいる時間が心地よかった。
気がつけば、2人はいつも一緒にいるようになっていた。
佐伯は千葉に住み、職場は東京だった。
通勤時間がかなりかかることもあって、いつしか茜のマンションから通勤することが増えていった。
あの、日当たりのいい新しい部屋。
そこに、いつの間にかもう1人の人生が加わっていた。
*
そして、それから数ヶ月後。
美月のもとに、茜から嬉しそうな声が届いた。
『ママ、私、結を辞めることになりました』
「えっ?」
『それと、あの会社も辞めます』
「まあ……!」
茜の声は、以前とはまるで違っていた。
『佐伯さんが住んでいる千葉の一軒家に、引っ越すことになったんです』
美月は、しばらく言葉が出なかった。
あの茜が。
あれほど苦しんでいた茜が。
今、幸せそうに笑っている。
「そう……。よかったわね」
それだけ言うのが精一杯だった。
少し寂しい気持ちはあった。
けれど、それ以上に嬉しかった。
銀座の夜の世界で、寿退社は決して多くない。
美月は笑顔で茜を送り出した。
「茜ちゃん、幸せになるのよ」
『はい、ママ。今まで本当にありがとうございました』
電話を切ったあと、美月はしばらくぼんやりしていた。
思えば――
茜の一年間は、幸せにたどり着くための試練の連続だった。
恋に破れた。
仕事で傷ついた。
そして、10年間一緒に暮らした愛猫を失った。
人生の底まで落ちたと思った。
それなのに――
ほんの小さなきっかけから、人生が動き始めた。
引っ越し。
新しい部屋。
婚活パーティー。
そして、1人の男性との出会い。
一つひとつを見れば、どれも特別な奇跡ではないのかもしれない。
でも、それが重なった結果、茜の人生は大きく変わった。
美月はふと思った。
あの日、茜が引っ越さずに、あの部屋に留まっていたら。
あの婚活パーティーに行かなかったら。
佐伯が友人に誘われていなかったら。
2人の目が合わなかったら――。
そう考えると、人生というものは本当に偶然の積み重ねかもしれない。
何がきっかけで運命が動くのか。
誰にも分からない。
それを「偶然」と呼ぶ人もいる。
「運命」と呼ぶ人もいる。
あるいは、方位や運勢が変わったからだと考える人もいるかもしれない。
けれど美月は、そのどれが正しいのか分からなかった。
ただ一つだけ思うことがあった。
住む場所が変われば、見える景色が変わる。
見える景色が変われば、心が変わる。
心が変われば、行動が変わる。
そして、行動が変われば――
人生まで変わることがある。
茜が引っ越してから、幸せになるまでの時間は、あまりにも早かった。
偶然にしては、出来すぎている。
けれど、人生には時々、そんなことが起こる。
説明できない出来事を、私たちは「運命」と呼ぶのかもしれない。
その夜。
美月は一人、『クラブ 結』の店内で、スマートフォンに残っていた写真を眺めていた。
そこには、ハロウィンの夜にバニーガールの衣装を着て、無邪気に笑っている茜が写っていた。
あれほど明るく笑っていた子が、一時は笑顔さえ失っていた。
そして今は――
大切な人と、新しい人生を歩き始めている。
美月は写真を見ながら、静かに微笑んだ。
人は、幸せになるために、時には大きく遠回りをする。
そして、その遠回りの途中にあった不運が、いつか振り返れば、
幸せへ向かうための道だったと気づくこともある。
茜にとって、あの引っ越しはただの引っ越しではなかった。
過去を置いて、新しい人生へ踏み出すための一歩だったのかもしれない。
美月は、ハロウィンの写真をもう一度見つめた。
そして、胸の中でそっと呟いた。
茜ちゃん『幸せになってもいいよ』
あの時、私が彼女にかけた言葉は、実は私自身にも言い聞かせていたのかもしれない。
銀座の夜で戦うすべての女たちに、
そして、私自身に――
その夜、美月は久しぶりに、穏やかな気持ちで眠りについた。
茜の物語は――
幸せという名の、ハッピーエンドを迎えた。