【連載小説】第132話 幸せは、思いがけない場所から

【連載小説】第132話 幸せは、思いがけない場所から

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小説

茜は、美月の言葉を胸に抱えたまま、不動産屋へ向かった。

『外国にでも行こうかな』

そう言っていた自分が、ほんの数日後には、

『引っ越してみよう』

と思っている。

人生なんて、案外そんなものなのかもしれない。

大きな決断をしたわけではない。

ただ、一人の人からかけられた何気ない一言が、止まっていた心を少しだけ動かした。

美月の、

『だったら、引っ越しよ!』

という言葉が、茜にはまるで天から届いた贈り物のように感じられた。

そして、隣町に新しい部屋を見つけた。

今までの六畳一間より少し広い。

何より、窓から入る日差しが部屋の隅々まで届く。

新築というわけではない。

けれど、今まで住んでいた古いアパートとは、何もかもが違って見えた。

部屋の空気まで、新しく感じる。

窓を開けると、風が入ってくる。

朝になると、カーテンの隙間から光が差し込む。

茜は、その光を見ながら思った。

――ここなら、やり直せるかもしれない。

そして、すぐに引っ越しをした。


不思議なことが起きた。

あれほど暗かった茜の表情が、日を追うごとに変わっていったのだ。

少しずつ、目に光が戻ってくる。

以前のように笑うことも増えた。

美月は、その変化を見ながら不思議に思った。

引っ越しただけなのに。

住む場所を変えただけなのに。

なぜ、こんなにも人は変われるのだろう。

もしかしたら、部屋そのものが茜を変えたわけではないのかもしれない。

長い間暮らしていた部屋には、10年間一緒にいた猫との思い出が詰まっていた。

その部屋にいる限り、茜は過去から離れることができなかった。

けれど、何もない新しい部屋には、まだ思い出がない。

だからこそ、未来を置くことができる。

そして茜自身も、知らず知らずのうちに、自分に言い聞かせていたのかもしれない。

――もう、可哀想な私じゃない。

――私だって、幸せになっていい。

そんな小さな意識の変化が、茜の行動を変えていった。


それからの茜の行動は驚くほど早かった。

以前から少し気になっていた『婚活パーティー』に参加することにしたのだ。

調べてみると、年代別、職業別、趣味別……。

世の中には、こんなにたくさんの婚活パーティーがあるのかと茜は驚いた。

あまり高望みはしない。

自分と同じくらい、あるいは少し年上。

そんな条件のパーティーを選んだ。

そして当日。

広い会場を貸し切って、男女合わせて50人ほどが集まった。

最初は、男性と女性がそれぞれ一列に並び、胸元につけた番号を確認する。

1人3分。

順番に向かい合い、自己紹介をする。

それぞれにボードが渡され、話をした相手の番号のところに印をつけていく。

たった3分で相手を知る。

普通なら緊張してしまいそうな時間だった。

けれど、そこは夜の仕事をしている茜だった。

初対面の人と話すことに、人見知りするような性格ではない。

『お仕事は何をされているんですか?』

『休日は何をしているんですか?』

『趣味は?』

気になることを次々に聞く。

自分のことも話す。

3分では足りないくらいだった。

茜自身も、その時間を楽しんでいた。

そして、自己紹介タイムが終わると、今度はフリートークになった。

会場のあちこちで、男女が自由に話し始める。

茜は、25人ほどの男性の中で、2人に好感を持った。

1人目は、それほど背は高くない。

けれど、気さくで、笑うとえくぼができる。

その笑顔が可愛らしくて、茜は気になった。

『ちょっと話してみたいな』

そう思って近づこうとした。

ところが、その男性の周りには、すでに何人もの女性が集まっている。

どうやら人気があるらしい。

茜は、少し離れたところから、その様子を見ていた。

――あぁ……。

――やっぱり私じゃダメなのかな。

ほんの少し、自信がなくなった。

そのときだった。

ふと顔を上げる。

すると――

もう一人、気になっていた男性と目が合った。

彼は、ずっと茜のほうを見ていた。

背が高い。

少し無愛想にも見える。

けれど、端正な顔立ちだった。

そして何より――

その目に、茜は惹かれた。

茜は自然を装って、彼のところへ歩いていった。

『こんにちは。こういうパーティーって、よく参加されるんですか?』

男性は少し驚いたような顔をして答えた。

『いや、今日が初めてですよ。友人が一人じゃ参加しづらいって言うから、無理やり連れてこられたんです』

『そうだったんですね。私も今回が初めてなんですよ』

話してみると、不思議だった。

最初は少し無愛想に見えたのに、言葉を交わすうちに、まるで昔から知っている人のような安心感があった。

変に気を使わない。

沈黙も苦にならない。

初対面なのに、居心地がいい。

パーティーは、そうこうしているうちに終わった。

けれど茜は、しっかりと連絡先を交換していた。

彼の名前は――

佐伯俊一。

会場を出て、自宅へ向かう。

けれど茜は、どうやって帰ってきたのか、あまり覚えていなかった。

頭の中には、ずっと佐伯の顔が浮かんでいた。


それから数日後。

電話が鳴った。

『もしもし、茜さん。佐伯だけど……覚えてる?』

『あっ、佐伯さん! もちろん覚えてますよ』

『今度の日曜日、デートでもしない?』

『デート……?』

茜は思わず笑ってしまった。

『嬉しいです。どこでも佐伯さんにお任せします』

電話を切ったあと、茜はまた笑った。

今どき、「デート」なんて言う人いるんだ。

そう思った。

けれど、あの少し生真面目そうな佐伯から、そんな言葉が出てくることが、かえって可愛く思えた。

そして2人は、少しずつ距離を縮めていった。

お互い、1人の時間が長かった。

だからこそ、一緒にいる時間が心地よかった。

気がつけば、2人はいつも一緒にいるようになっていた。

佐伯は千葉に住み、職場は東京だった。

通勤時間がかなりかかることもあって、いつしか茜のマンションから通勤することが増えていった。

あの、日当たりのいい新しい部屋。

そこに、いつの間にかもう1人の人生が加わっていた。


そして、それから数ヶ月後。

美月のもとに、茜から嬉しそうな声が届いた。

『ママ、私、結を辞めることになりました』

「えっ?」

『それと、あの会社も辞めます』

「まあ……!」

茜の声は、以前とはまるで違っていた。

『佐伯さんが住んでいる千葉の一軒家に、引っ越すことになったんです』

美月は、しばらく言葉が出なかった。

あの茜が。

あれほど苦しんでいた茜が。

今、幸せそうに笑っている。

「そう……。よかったわね」

それだけ言うのが精一杯だった。

少し寂しい気持ちはあった。

けれど、それ以上に嬉しかった。

銀座の夜の世界で、寿退社は決して多くない。

美月は笑顔で茜を送り出した。

「茜ちゃん、幸せになるのよ」

『はい、ママ。今まで本当にありがとうございました』

電話を切ったあと、美月はしばらくぼんやりしていた。

思えば――

茜の一年間は、幸せにたどり着くための試練の連続だった。

恋に破れた。

仕事で傷ついた。

そして、10年間一緒に暮らした愛猫を失った。

人生の底まで落ちたと思った。

それなのに――

ほんの小さなきっかけから、人生が動き始めた。

引っ越し。

新しい部屋。

婚活パーティー。

そして、1人の男性との出会い。

一つひとつを見れば、どれも特別な奇跡ではないのかもしれない。

でも、それが重なった結果、茜の人生は大きく変わった。

美月はふと思った。

あの日、茜が引っ越さずに、あの部屋に留まっていたら。

あの婚活パーティーに行かなかったら。

佐伯が友人に誘われていなかったら。

2人の目が合わなかったら――。

そう考えると、人生というものは本当に偶然の積み重ねかもしれない。

何がきっかけで運命が動くのか。

誰にも分からない。

それを「偶然」と呼ぶ人もいる。

「運命」と呼ぶ人もいる。

あるいは、方位や運勢が変わったからだと考える人もいるかもしれない。

けれど美月は、そのどれが正しいのか分からなかった。

ただ一つだけ思うことがあった。

住む場所が変われば、見える景色が変わる。

見える景色が変われば、心が変わる。

心が変われば、行動が変わる。

そして、行動が変われば――

人生まで変わることがある。

茜が引っ越してから、幸せになるまでの時間は、あまりにも早かった。

偶然にしては、出来すぎている。

けれど、人生には時々、そんなことが起こる。

説明できない出来事を、私たちは「運命」と呼ぶのかもしれない。

その夜。

美月は一人、『クラブ 結』の店内で、スマートフォンに残っていた写真を眺めていた。

そこには、ハロウィンの夜にバニーガールの衣装を着て、無邪気に笑っている茜が写っていた。

あれほど明るく笑っていた子が、一時は笑顔さえ失っていた。

そして今は――

大切な人と、新しい人生を歩き始めている。

美月は写真を見ながら、静かに微笑んだ。

人は、幸せになるために、時には大きく遠回りをする。

そして、その遠回りの途中にあった不運が、いつか振り返れば、

幸せへ向かうための道だったと気づくこともある。

茜にとって、あの引っ越しはただの引っ越しではなかった。

過去を置いて、新しい人生へ踏み出すための一歩だったのかもしれない。

美月は、ハロウィンの写真をもう一度見つめた。

そして、胸の中でそっと呟いた。

茜ちゃん『幸せになってもいいよ』

あの時、私が彼女にかけた言葉は、実は私自身にも言い聞かせていたのかもしれない。

銀座の夜で戦うすべての女たちに、

そして、私自身に――

その夜、美月は久しぶりに、穏やかな気持ちで眠りについた。

茜の物語は――

幸せという名の、ハッピーエンドを迎えた。
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