【連載小説】第127話 同じ空間にいるだけで

【連載小説】第127話 同じ空間にいるだけで

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小説

人は、見たくないものがあると、自然に目をそらす。

それは、ある意味で防衛本能なのかもしれない。

違和感を覚えても、

「気のせいだろう」

「まだ始まったばかりだから」

「もう少し様子を見よう」

そうやって、自分の中で理由をつけてしまう。

あのときの美月も、そうだった。

最初に感じた小さな違和感から目をそらした。

けれど、人は間違える。

そして、その間違いからしか学べないこともある。

*

紗和ママに『Club LUNA』を任せることが決まったとき、美月は最初に、ある程度の約束事を決めておかなければいけないと思った。

今思えば、もっと細かく条件を決めておけばよかったと思う。

けれど当時の美月には、雇われママを置いて店を任せるという経験がなかった。

何をどこまで決めればいいのかも、正直よく分からなかった。

ただ、一つだけ譲れない条件があった。

「赤字が3ヶ月続いたら、その時点でお店は閉めます」

美月は、そう伝えた。

冷たい条件に聞こえるかもしれない。

けれど、『Club LUNA』は美月の手元から離れた場所にある。

そこで何かが起きれば、当然『クラブ 結』にも影響が及ぶ。

2つの店を持つということは、夢が2倍になることではない。

責任も、心配も、2倍になる。

だから美月は、そこだけは曖昧にしたくなかった。

「それでもいいです。任せてください」

紗和ママはそう言った。

その言葉を聞いて、美月は彼女に店を任せることを決めた。

こうして――

紗和ママの『Club LUNA』が始まった。

*

けれど、店が始まってしばらくすると、美月は少しずつLUNAへ足を運ばなくなっていった。

理由は、これといって一つではなかった。

紗和ママの性格が、美月とはどうしても合わなかった。

何か大きなことをされたわけではない。

喧嘩をしたわけでもない。

それなのに、一緒にいると、なぜか疲れる。

同じ空間にいるだけで、気持ちがざわつく。

歓迎されていないような、微妙な空気も感じる。

美月もそれを感じ取っていたし、紗和ママもまた、美月との間に何かを感じていたのかもしれない。

いつの間にか二人は、必要以上に顔を合わせないようになっていた。

そんなある日のことだった。

突然、紗和ママが1人で『クラブ 結』へやって来た。

いつもの強気な雰囲気とは違っていた。

俯き加減で、どこか元気がない。

「紗和ママ、どうしたの?」

美月が声をかけると、紗和ママは小さく息を吐いた。

「それが……もう3日くらい、お客様が来なくて……なんだか不安になっちゃって」

「えっ、そうなの?」

美月は少し驚いた。

「みんなで営業してるの?」

「はい。思いつく人にはいっぱい連絡してるんですけど……。急に暇になっちゃって。何がいけないのか分からなくて」

美月は少し考えてから言った。

「お客様商売だから、暇なときもあるわよ」

自分でも分かっていた。

言い方が少し強かったかもしれない。

けれど、美月は経営者として、そこで感情に流されるわけにはいかなかった。

「そうですよね……」

紗和ママは小さく頷いた。

「どうも、お邪魔しました」

そう言うと、紗和ママは急に立ち上がり、そのまま帰ってしまった。

美月は、しばらくその後ろ姿を見送った。

そして後になって思った。

――あのとき、もっと違う言葉をかければよかったのかもしれない。

その日、結に来ていたお客様に、

「よかったらLUNAにも行ってあげて」

そう言えばよかったのではないか。

オーナーママなのだから、それくらいしてあげるべきだったのではないか。

そう思った。

けれど、気づいたときには、もう遅かった。

2人の間には、小さな行き違いがひとつ、またひとつと積み重なっていた。

そして、その距離は少しずつ広がっていった。

*

一方、その頃――。

紗和ママの住む月島のマンション。

1LDKのデザイナーズマンションで、部屋そのものはお洒落だった。

ただ、きちんと整理整頓されているかといえば、そうでもない。

洋服が椅子に掛かり、飲み物の空き瓶やグラスがテーブルに置かれている。

そんな部屋の中で、紗和ママは剛の肩にもたれながら呟いた。

「ねえ……私、雇われママ疲れちゃった」

剛は紗和の顔を見た。

「どうしたんだよ。まだ始まったばかりじゃないか」

「美月ママは売上のことをうるさく言わないけど……。でも、売上が上がらなかったら、いつ『辞めてね』って言われるか分からないじゃない。なんか落ち着かないのよ」

「でも、オープンして、それなりにお客さん来てるじゃないか」

「まあ、そうだけど……。それがいつまで続くか分からないじゃない」

紗和は少し唇を尖らせた。

「この前だって、あまりに暇だったから美月ママのお店に行ったのね」

「うん」

「普通だったらさ、そのときお店にいるお客様に『LUNAにも行ってあげて』とか、『今日は一緒に行ってあげて』とか、言ってくれるもんじゃない?」

剛は黙って聞いていた。

「それなのに、そんな気配もないの。なんか、仕方ないわねって感じで……」

紗和の声に、少しずつ苛立ちが混じっていく。

「私、腹が立って帰ってきちゃった」

「まあまあ……。オーナーママにも何か考えがあるんじゃないか」

「考えなんてないと思うよ」

紗和は吐き捨てるように言った。

「冷たいったらありゃしない」

剛は苦笑した。

「まだ始まったばかりなんだから、そう結果を急がなくてもいいんじゃないか」

しばらく黙っていた紗和が、剛の肩にもう一度頭を預けた。

「……剛に話したら、少し気が楽になったわ」

「俺はいつだって紗和を応援してるよ」

「嬉しい」

紗和はようやく笑った。

その笑顔を見ながら、剛も笑った。

2人にとっては、それで十分だった。

少なくとも、その夜は。

*

剛は大手建設会社に勤めるサラリーマンだった。

紗和とは、以前の店からの知り合いだった。

いつの頃からか、お互いを意識するようになり、自然な流れで付き合い始めた。

剛の実家は裕福だった。

大きな苦労を知らずに育ったせいか、どこかおっとりしていて、自分に対しても強い自信を持っていた。

物事を深刻に考えすぎず、何とかなるさ、と考えるタイプだった。

それは剛の長所でもあり、短所でもあった。

人の痛みを深く想像すること。

苦しい状況でも、何年も耐えて踏ん張ること。

そういう経験が少ないため、人の苦労に対する共感や粘り強さには、少し欠けていた。

要は平和な人だった。

争いを好まず、誰かを傷つけるつもりもない。

ただ――

自分が痛みを知らないということに、自分自身が気づいていなかった。

一方の紗和は違った。

幼い頃から、母親の苦労を身近に見て育った。

だからこそ、生きることへの執着は誰よりも強かった。

負けたくない。

置いていかれたくない。

自分の居場所を、自分でつかみたい。

その気持ちは、誰よりも強かった。

けれど――

店を任される「ママ」になるには、まだ年齢も経験も足りなかった。

目の前の出来事に心を奪われ、その一つ一つに感情を揺らす。

お客様が来なければ不安になり、誰かに何かを言われれば傷つき、自分を認めてもらえなければ腹を立てる。

その先に何を目指すのか。

店をどう育てていくのか。

自分が背負っている責任とは何なのか。

その頃の紗和には、まだそこまで見えていなかった。

そして美月もまた、まだ気づいていなかった。

二人の間にできた小さな溝が、

やがて、簡単には埋められないほど深くなっていくことを。

『Club LUNA』は、まだ始まったばかりだった。

けれど、ふたつの月は――

同じ夜空に浮かびながら、少しずつ違う方向を向き始めていた。
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