人は、見たくないものがあると、自然に目をそらす。
それは、ある意味で防衛本能なのかもしれない。
違和感を覚えても、
「気のせいだろう」
「まだ始まったばかりだから」
「もう少し様子を見よう」
そうやって、自分の中で理由をつけてしまう。
あのときの美月も、そうだった。
最初に感じた小さな違和感から目をそらした。
けれど、人は間違える。
そして、その間違いからしか学べないこともある。
*
紗和ママに『Club LUNA』を任せることが決まったとき、美月は最初に、ある程度の約束事を決めておかなければいけないと思った。
今思えば、もっと細かく条件を決めておけばよかったと思う。
けれど当時の美月には、雇われママを置いて店を任せるという経験がなかった。
何をどこまで決めればいいのかも、正直よく分からなかった。
ただ、一つだけ譲れない条件があった。
「赤字が3ヶ月続いたら、その時点でお店は閉めます」
美月は、そう伝えた。
冷たい条件に聞こえるかもしれない。
けれど、『Club LUNA』は美月の手元から離れた場所にある。
そこで何かが起きれば、当然『クラブ 結』にも影響が及ぶ。
2つの店を持つということは、夢が2倍になることではない。
責任も、心配も、2倍になる。
だから美月は、そこだけは曖昧にしたくなかった。
「それでもいいです。任せてください」
紗和ママはそう言った。
その言葉を聞いて、美月は彼女に店を任せることを決めた。
こうして――
紗和ママの『Club LUNA』が始まった。
*
けれど、店が始まってしばらくすると、美月は少しずつLUNAへ足を運ばなくなっていった。
理由は、これといって一つではなかった。
紗和ママの性格が、美月とはどうしても合わなかった。
何か大きなことをされたわけではない。
喧嘩をしたわけでもない。
それなのに、一緒にいると、なぜか疲れる。
同じ空間にいるだけで、気持ちがざわつく。
歓迎されていないような、微妙な空気も感じる。
美月もそれを感じ取っていたし、紗和ママもまた、美月との間に何かを感じていたのかもしれない。
いつの間にか二人は、必要以上に顔を合わせないようになっていた。
そんなある日のことだった。
突然、紗和ママが1人で『クラブ 結』へやって来た。
いつもの強気な雰囲気とは違っていた。
俯き加減で、どこか元気がない。
「紗和ママ、どうしたの?」
美月が声をかけると、紗和ママは小さく息を吐いた。
「それが……もう3日くらい、お客様が来なくて……なんだか不安になっちゃって」
「えっ、そうなの?」
美月は少し驚いた。
「みんなで営業してるの?」
「はい。思いつく人にはいっぱい連絡してるんですけど……。急に暇になっちゃって。何がいけないのか分からなくて」
美月は少し考えてから言った。
「お客様商売だから、暇なときもあるわよ」
自分でも分かっていた。
言い方が少し強かったかもしれない。
けれど、美月は経営者として、そこで感情に流されるわけにはいかなかった。
「そうですよね……」
紗和ママは小さく頷いた。
「どうも、お邪魔しました」
そう言うと、紗和ママは急に立ち上がり、そのまま帰ってしまった。
美月は、しばらくその後ろ姿を見送った。
そして後になって思った。
――あのとき、もっと違う言葉をかければよかったのかもしれない。
その日、結に来ていたお客様に、
「よかったらLUNAにも行ってあげて」
そう言えばよかったのではないか。
オーナーママなのだから、それくらいしてあげるべきだったのではないか。
そう思った。
けれど、気づいたときには、もう遅かった。
2人の間には、小さな行き違いがひとつ、またひとつと積み重なっていた。
そして、その距離は少しずつ広がっていった。
*
一方、その頃――。
紗和ママの住む月島のマンション。
1LDKのデザイナーズマンションで、部屋そのものはお洒落だった。
ただ、きちんと整理整頓されているかといえば、そうでもない。
洋服が椅子に掛かり、飲み物の空き瓶やグラスがテーブルに置かれている。
そんな部屋の中で、紗和ママは剛の肩にもたれながら呟いた。
「ねえ……私、雇われママ疲れちゃった」
剛は紗和の顔を見た。
「どうしたんだよ。まだ始まったばかりじゃないか」
「美月ママは売上のことをうるさく言わないけど……。でも、売上が上がらなかったら、いつ『辞めてね』って言われるか分からないじゃない。なんか落ち着かないのよ」
「でも、オープンして、それなりにお客さん来てるじゃないか」
「まあ、そうだけど……。それがいつまで続くか分からないじゃない」
紗和は少し唇を尖らせた。
「この前だって、あまりに暇だったから美月ママのお店に行ったのね」
「うん」
「普通だったらさ、そのときお店にいるお客様に『LUNAにも行ってあげて』とか、『今日は一緒に行ってあげて』とか、言ってくれるもんじゃない?」
剛は黙って聞いていた。
「それなのに、そんな気配もないの。なんか、仕方ないわねって感じで……」
紗和の声に、少しずつ苛立ちが混じっていく。
「私、腹が立って帰ってきちゃった」
「まあまあ……。オーナーママにも何か考えがあるんじゃないか」
「考えなんてないと思うよ」
紗和は吐き捨てるように言った。
「冷たいったらありゃしない」
剛は苦笑した。
「まだ始まったばかりなんだから、そう結果を急がなくてもいいんじゃないか」
しばらく黙っていた紗和が、剛の肩にもう一度頭を預けた。
「……剛に話したら、少し気が楽になったわ」
「俺はいつだって紗和を応援してるよ」
「嬉しい」
紗和はようやく笑った。
その笑顔を見ながら、剛も笑った。
2人にとっては、それで十分だった。
少なくとも、その夜は。
*
剛は大手建設会社に勤めるサラリーマンだった。
紗和とは、以前の店からの知り合いだった。
いつの頃からか、お互いを意識するようになり、自然な流れで付き合い始めた。
剛の実家は裕福だった。
大きな苦労を知らずに育ったせいか、どこかおっとりしていて、自分に対しても強い自信を持っていた。
物事を深刻に考えすぎず、何とかなるさ、と考えるタイプだった。
それは剛の長所でもあり、短所でもあった。
人の痛みを深く想像すること。
苦しい状況でも、何年も耐えて踏ん張ること。
そういう経験が少ないため、人の苦労に対する共感や粘り強さには、少し欠けていた。
要は平和な人だった。
争いを好まず、誰かを傷つけるつもりもない。
ただ――
自分が痛みを知らないということに、自分自身が気づいていなかった。
一方の紗和は違った。
幼い頃から、母親の苦労を身近に見て育った。
だからこそ、生きることへの執着は誰よりも強かった。
負けたくない。
置いていかれたくない。
自分の居場所を、自分でつかみたい。
その気持ちは、誰よりも強かった。
けれど――
店を任される「ママ」になるには、まだ年齢も経験も足りなかった。
目の前の出来事に心を奪われ、その一つ一つに感情を揺らす。
お客様が来なければ不安になり、誰かに何かを言われれば傷つき、自分を認めてもらえなければ腹を立てる。
その先に何を目指すのか。
店をどう育てていくのか。
自分が背負っている責任とは何なのか。
その頃の紗和には、まだそこまで見えていなかった。
そして美月もまた、まだ気づいていなかった。
二人の間にできた小さな溝が、
やがて、簡単には埋められないほど深くなっていくことを。
『Club LUNA』は、まだ始まったばかりだった。
けれど、ふたつの月は――
同じ夜空に浮かびながら、少しずつ違う方向を向き始めていた。