【連載小説】第127話 同じ空間にいるだけで

【連載小説】第127話 同じ空間にいるだけで

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小説

人は、見たくないものがあると、自然に目をそらす。

それは、ある意味で防衛本能なのかもしれない。

違和感を覚えても、

「気のせいだろう」

「まだ始まったばかりだから」

「もう少し様子を見よう」

そうやって、自分の中で理由をつけてしまう。

あのときの美月も、そうだった。

最初に感じた小さな違和感から目をそらした。

けれど、人は間違える。

そして、その間違いからしか学べないこともある。


紗和ママに『Club LUNA』を任せることが決まったとき、美月は最初に、ある程度の約束事を決めておかなければいけないと思った。

今思えば、もっと細かく条件を決めておけばよかったと思う。

けれど当時の美月には、雇われママを置いて店を任せるという経験がなかった。

何をどこまで決めればいいのかも、正直よく分からなかった。

ただ、一つだけ譲れない条件があった。

「赤字が3ヶ月続いたら、その時点でお店は閉めます」

美月は、そう伝えた。

冷たい条件に聞こえるかもしれない。

けれど、『Club LUNA』は美月の手元から離れた場所にある。

そこで何かが起きれば、当然『クラブ 結』にも影響が及ぶ。

2つの店を持つということは、夢が2倍になることではない。

責任も、心配も、2倍になる。

だから美月は、そこだけは曖昧にしたくなかった。

「それでもいいです。任せてください」

紗和ママはそう言った。

その言葉を聞いて、美月は彼女に店を任せることを決めた。

こうして――

紗和ママの『Club LUNA』が始まった。


けれど、店が始まってしばらくすると、美月は少しずつLUNAへ足を運ばなくなっていった。

理由は、これといって一つではなかった。

紗和ママの性格が、美月とはどうしても合わなかった。

何か大きなことをされたわけではない。

喧嘩をしたわけでもない。

それなのに、一緒にいると、なぜか疲れる。

同じ空間にいるだけで、気持ちがざわつく。

歓迎されていないような、微妙な空気も感じる。

美月もそれを感じ取っていたし、紗和ママもまた、美月との間に何かを感じていたのかもしれない。

いつの間にか二人は、必要以上に顔を合わせないようになっていた。

そんなある日のことだった。

突然、紗和ママが1人で『クラブ 結』へやって来た。

いつもの強気な雰囲気とは違っていた。

俯き加減で、どこか元気がない。

「紗和ママ、どうしたの?」

美月が声をかけると、紗和ママは小さく息を吐いた。

「それが……もう3日くらい、お客様が来なくて……なんだか不安になっちゃって」

「えっ、そうなの?」

美月は少し驚いた。

「みんなで営業してるの?」

「はい。思いつく人にはいっぱい連絡してるんですけど……。急に暇になっちゃって。何がいけないのか分からなくて」

美月は少し考えてから言った。

「お客様商売だから、暇なときもあるわよ」

自分でも分かっていた。

言い方が少し強かったかもしれない。

けれど、美月は経営者として、そこで感情に流されるわけにはいかなかった。

「そうですよね……」

紗和ママは小さく頷いた。

「どうも、お邪魔しました」

そう言うと、紗和ママは急に立ち上がり、そのまま帰ってしまった。

美月は、しばらくその後ろ姿を見送った。

そして後になって思った。

――あのとき、もっと違う言葉をかければよかったのかもしれない。

その日、結に来ていたお客様に、

「よかったらLUNAにも行ってあげて」

そう言えばよかったのではないか。

オーナーママなのだから、それくらいしてあげるべきだったのではないか。

そう思った。

けれど、気づいたときには、もう遅かった。

2人の間には、小さな行き違いがひとつ、またひとつと積み重なっていた。

そして、その距離は少しずつ広がっていった。


一方、その頃――。

紗和ママの住む月島のマンション。

1LDKのデザイナーズマンションで、部屋そのものはお洒落だった。

ただ、きちんと整理整頓されているかといえば、そうでもない。

洋服が椅子に掛かり、飲み物の空き瓶やグラスがテーブルに置かれている。

そんな部屋の中で、紗和ママは剛の肩にもたれながら呟いた。

「ねえ……私、雇われママ疲れちゃった」

剛は紗和の顔を見た。

「どうしたんだよ。まだ始まったばかりじゃないか」

「美月ママは売上のことをうるさく言わないけど……。でも、売上が上がらなかったら、いつ『辞めてね』って言われるか分からないじゃない。なんか落ち着かないのよ」

「でも、オープンして、それなりにお客さん来てるじゃないか」

「まあ、そうだけど……。それがいつまで続くか分からないじゃない」

紗和は少し唇を尖らせた。

「この前だって、あまりに暇だったから美月ママのお店に行ったのね」

「うん」

「普通だったらさ、そのときお店にいるお客様に『LUNAにも行ってあげて』とか、『今日は一緒に行ってあげて』とか、言ってくれるもんじゃない?」

剛は黙って聞いていた。

「それなのに、そんな気配もないの。なんか、仕方ないわねって感じで……」

紗和の声に、少しずつ苛立ちが混じっていく。

「私、腹が立って帰ってきちゃった」

「まあまあ……。オーナーママにも何か考えがあるんじゃないか」

「考えなんてないと思うよ」

紗和は吐き捨てるように言った。

「冷たいったらありゃしない」

剛は苦笑した。

「まだ始まったばかりなんだから、そう結果を急がなくてもいいんじゃないか」

しばらく黙っていた紗和が、剛の肩にもう一度頭を預けた。

「……剛に話したら、少し気が楽になったわ」

「俺はいつだって紗和を応援してるよ」

「嬉しい」

紗和はようやく笑った。

その笑顔を見ながら、剛も笑った。

2人にとっては、それで十分だった。

少なくとも、その夜は。


剛は大手建設会社に勤めるサラリーマンだった。

紗和とは、以前の店からの知り合いだった。

いつの頃からか、お互いを意識するようになり、自然な流れで付き合い始めた。

剛の実家は裕福だった。

大きな苦労を知らずに育ったせいか、どこかおっとりしていて、自分に対しても強い自信を持っていた。

物事を深刻に考えすぎず、何とかなるさ、と考えるタイプだった。

それは剛の長所でもあり、短所でもあった。

人の痛みを深く想像すること。

苦しい状況でも、何年も耐えて踏ん張ること。

そういう経験が少ないため、人の苦労に対する共感や粘り強さには、少し欠けていた。

要は平和な人だった。

争いを好まず、誰かを傷つけるつもりもない。

ただ――

自分が痛みを知らないということに、自分自身が気づいていなかった。

一方の紗和は違った。

幼い頃から、母親の苦労を身近に見て育った。

だからこそ、生きることへの執着は誰よりも強かった。

負けたくない。

置いていかれたくない。

自分の居場所を、自分でつかみたい。

その気持ちは、誰よりも強かった。

けれど――

店を任される「ママ」になるには、まだ年齢も経験も足りなかった。

目の前の出来事に心を奪われ、その一つ一つに感情を揺らす。

お客様が来なければ不安になり、誰かに何かを言われれば傷つき、自分を認めてもらえなければ腹を立てる。

その先に何を目指すのか。

店をどう育てていくのか。

自分が背負っている責任とは何なのか。

その頃の紗和には、まだそこまで見えていなかった。

そして美月もまた、まだ気づいていなかった。

二人の間にできた小さな溝が、

やがて、簡単には埋められないほど深くなっていくことを。

『Club LUNA』は、まだ始まったばかりだった。

けれど、ふたつの月は――

同じ夜空に浮かびながら、少しずつ違う方向を向き始めていた。
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