今日は『クラブビー』のオープンの日だった。
マスターと蓉子、奈津子。
そしてアルバイトの女性が3人。
小さな店に集まった女たちは、これから始まる新しい人生に胸を膨らませていた。
蓉子は母親から借りた薄紫色の色留袖を着て、美容院にも行った。
鏡の中の自分を見ながら、何度も襟元を直した。
『今日から私はママなんだ……』
そう思うと、胸の奥が少し震えた。
『結』では制服だったから、普段から洋服にそれほどお金をかけることもなかった。
新しい店を始める資金も十分ではない。
それでも、ママになるのなら着物くらいは必要だと思い、母親に相談した。
実は蓉子の母親も、結婚する前は銀座で働いていた。
しかも大きなクラブのナンバーワン。
当時、一世を風靡したほどの女性だったという。
その絶頂期に、ある大手鉄鋼会社の部長に見初められ、あっさりと銀座を辞めた。
そして、その人生を変えるきっかけとなったのが――蓉子だった。
蓉子を身ごもったことで、華やかな銀座を離れ、普通の主婦になったのである。
だから蓉子は、もしかすると生まれた時から銀座という世界と、どこか縁があったのかもしれない。
一方、奈津子は純白のロングドレスに身を包んでいた。
輝くような美しさだった。
ただ、店の内装は以前のまま。
少し古びた店内が、二人の若さとは対照的だった。
それでも――。
その夜は、そんなことを気にする暇もなかった。
開店祝いに駆けつけるお客様。
次々に届く花。
笑い声。
二人の若さと勢いで、店は瞬く間に熱気に包まれていった。
その日の早い時間に駆けつけてくれたのは、大手不動産会社の佐久間さんだった。
『やあ、蓉ちゃん。いよいよママだね。おめでとう!』
『佐久間さん、ありがとうございます。こんなに早く来てくださるなんて、感激です』
『蓉ちゃんのためなら、どこだって駆けつけるよ』
蓉子は嬉しそうに笑った。
だが、その夜、店内を埋め尽くしたお客様のほとんどは、奈津子が呼んだ人たちだった。
気がつけば、誰がママなのか分からないほどだった。
蓉子のお客様といえば、佐久間さんと数人。
それでも初日なのだから仕方がない。
蓉子はそう自分に言い聞かせた。
しかし、奈津子の胸の中には、別の感情が芽生えていた。
――これで、本当に折半なの?
自分のほうが、はるかにお客様を呼べる。
それなのに、店の経営は蓉子に任され、収入は折半。
もちろん、始まったばかりの初日に口にすることではない。
そう思って、その日は何も言わなかった。
帰りのタクシーの中で、ふと気になった。
――このタクシー代は、誰が払うのだろう?
『結』では、遅くなればタクシー代が出た。
そんな些細なことまで、また話し合わなければならない。
そう考え始めると、だんだん面倒になってきた。
せっかく新しい店に移ったのに、最初からこんな小さなことを気にしていては、気持ちよく働けない。
そんな思いが、少しずつ奈津子の中に積もっていった。
それからしばらくは、目まぐるしい日が続いた。
そして、開店から数週間が過ぎた頃。
奈津子は蓉子を喫茶店に呼び出した。
『ママに聞きたいことがあるんだけど……』
いきなりだった。
蓉子は、奈津子の顔を見て少し身構えた。
『奈っちゃん、どうしたの? そんな怖い顔して』
『私、疑問があるのよ』
奈津子は、オープンした頃から胸の中に溜め込んでいたものを、もう抑えられなくなっていた。
『何なの?』
『私を誘った時、売上の折半って話だったよね』
『うん』
『でもさ、今お店に来ているお客様のほとんどが、私が呼んだ人ばかりじゃない?』
蓉子は黙った。
『これで本当に折半って、合わないんじゃない?』
『奈っちゃん、ちょっと待ってよ』
蓉子は、できるだけ穏やかに答えようとした。
『まだオープンしたばかりよ。私だって毎日、お客様に連絡しているの。まだその結果が出ていないだけじゃない』
『でも現実に、今来てるのは私のお客様でしょう?』
『それは分かってる』
『じゃあ――』
『でもね、奈っちゃん。お店って、そういうことだけじゃないのよ』
『そういうことって?』
『確かに奈っちゃんが呼んでくれている。それは私も分かってる。でも、お店にはヘルプの子もいるし、みんなで奈っちゃんを支えているでしょう? お客様が気持ちよく過ごせるように、目に見えないところで動いてくれている人もいるのよ』
『まあ……そうだけど』
『だから、もう少し長い目で見てくれないかな。私も頑張るから』
蓉子はそう言ったものの、背中にはじっとりと汗をかいていた。
――大変なことになった。
この時になって初めて、蓉子は奈津子という女性の本当の姿を少しだけ見た気がした。
そして翌日。
蓉子は真田マスターに電話をした。
『マスター、大変なことが起きちゃった。ねえ、起きてる?』
『何だよ。まだ昼だぜ』
『奈っちゃんが、いきなり折半じゃ合わないって言ってきたのよ。どうしよう』
『え? まだ始まったばかりじゃないか』
『そうなんだけど……』
『それでもっと給料を上げろって? 冗談じゃないよ』
『そこまでは言ってないけど、かなりの剣幕だったわ』
電話の向こうで、マスターはしばらく黙った。
『そうか……』
そして、ぽつりと言った。
『奈津子は金で動くタイプだと思っていたが……こんなに早く不満を言ってくるとはな』
『私、人選を間違えたのかしら』
『まあ、いざとなったら辞めてもらえばいい。蓉子ママの実力で、奈津子のお客様を店のお客様にしていけばいいんだ。この業界じゃ、珍しいことじゃない』
その言葉を聞きながら、蓉子は自分の甘さを思い知った。
奈津子の明るさ。
人を惹きつける華やかさ。
それだけを見ていた。
その奥にあるものまで、見抜くことはできなかった。
そして――。
半年後。
二人は喧嘩別れをした。
奈津子は『クラブビー』を辞めた。
始まったばかりの夢は、わずか半年で終わった。
その後、蓉子は奈津子のお客様を引き継ぎ、店を続けていった。
けれど、最初の広い店を維持することは次第に難しくなっていった。
場所を変え。
また場所を変え。
最後にはカウンターバーを間借りして営業していたという。
そして――。
いつしか、その店もなくなって蓉子は銀座から姿を消した。
人は、自分がどこへ向かっているのか、その途中ではなかなか分からない。
あれほど自信に満ちていた2人が、別々の道を歩いていく。
人生とは、そういうものなのかもしれない。
蓉子がかつて言った。
『結よりも大きいお店なんです』
その言葉が美月の胸に深く残っていた。
もし、あの時。
2人が開店する前に『結』へ来て、
菓子折りの一つでも持って、
『ママ、今までお世話になりました。これから二人で頑張ります。よろしくお願いします』
そう頭を下げてくれていたら――。
美月は、きっと応援しただろう。
少なくとも、2人の門出を笑顔で送り出していた。
けれど、人は時として、ほんの一言の違いで、その後の関係を変えてしまう。
義理を欠いたこと。
筋を通さなかったこと。
それは、その時には小さなことに思えても、後になって大きな意味を持つことがある。
『クラブ結』は、主要な2人の独立という思いがけない出来事で、大きな打撃を受けた。
数か月の間に、多くのお客様が流れた。
店にとっては、決して小さな傷ではなかった。
それでも――。
美月は立ち止まらなかった。
新しい女性を探した。
新しい風を入れた。
そして、お客様にそれを伝え続けた。
傷ついた店は、少しずつ息を吹き返していった。
人が去ったあとには、必ず空席ができる。
けれど、その空席を埋めるのは、去っていった人ではない。
新しく出会う人なのだ。
美月は、そうやってまた一歩を踏み出した。
それが、この先の人生を変えることになるとは――。
この時の美月は、まだ知らなかった。
そして物語は、もう一つの月へ向かって動き始める。
――Club LUNA。